▼この内田百閒の弁がきっかけになった。
https://twitter.com/Hyakken_Uchida/status/1276354470134202368
「飲むと無くなるのが酒の一番の欠点」と百閒は嘆くわけだが、そうか私の場合「死ぬと終わるのが死の一番の欠点だ」と嘆いているのか、と。
「酒は飲んだらなくなってしまう。いったいなぜだ? ああどうしたらいいんだ」と詮無きことを百閒は全身で問うている。私も「死んだら終わりって、どういうこと? ああどうしたらいいんだ」と全身で問うている。
しかし、どちらも、はたから見れば、「え、それって謎ですか?」ということになろう。酒は飲んだら無くなる。命は死んだら無くなる。たしかに当たり前だ。嘆いても問うても益はない。しかしそれでも、この問いは本当に無益な問いなのかと、今夏もまた改めて考えることにする。
▼はじめは「死んだら終わりだけど、それでいいのか?」という問いだった。
やがてこれは「神様はいないけど、それでいいのか?」という問いと同じだと思うようになった。これがさらに「なぜ何もないのではなく、なぜ何かがあるのか?」という問いに姿を変えることになった。
その問いは本当はいかなる問いなのかという見極めは大事だ。謎めいているが実はちっとも謎ではない可能性。問うても答えが出てくるはずのない可能性。問いや答えが深まっても実存的には何の足しにもならない可能性。それらを避けないと、本当の意味で無駄骨になる。
さてでは「なぜ何もないのではなく、なぜ何かがあるのか?」は本当に謎なのか? いかなる謎なのか? 「酒を飲むと無くなるのはなぜだ?」のごとき酔っぱらいゆえの深淵な問答にすぎないことはないのか?
以下に続く
↓
https://tokyocat.hatenadiary.jp/entry/2020/07/11/000000
↓
https://tokyocat.hatenadiary.jp/entry/2020/07/23/000000
↓
https://tokyocat.hatenadiary.jp/entry/2020/08/05/000000