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【2019 輪廻転生】

論理は宇宙の法則ではないのか

「人間ならへそがある カエルにはへそがない それゆえ カエルは人間ではない」ーーこれは正しいが、それはべつに、人間やカエルの体を詳しく調べたから言えるわけではなく、人間やカエルの生物学的分類を知っているから言えるわけでもない。どうしたってこれは正しい。それが論理というもの。

そうすると論理は数学のようなものか? 3つのリンゴと4つのリンゴを足すと7つのリンゴになることは、リンゴに詳しくなくてもそれを調べなくても、言える。3つのリンゴと4つのバナナを足して7人の人に与えられることすら明らかだ。しかし…

さっきの「人間やカエルのへそ」については、似たような自動的な処理によっても正しいとわかるが、実際には、人間やカエルのことをまったくイメージせずに考えてはいない。論理は数学ほど抽象化・道具化されていないことになる。論理は私たちにとって微妙な位置にあるのだ。そこがとても興味深い。

このとき論理と数学の位置は比較しやすい。しかし、この世界全体にとって論理がどのような位置にあるかは、物理法則たとえば重力定数がどのような位置にあるかとは、明らかに異なる。そして、論理はこの世のいかなる位置にあるのかと、私は昔からぼうっと思案しているが、今なおわからない。

重力は人間やカエルを見てわかるし地球を見てもアンドロメダを見てもわかる。あるいはそれらをまったく見ないとわかりようがない。では論理は? それは人間を見て初めてわかるのか? カエルや細菌に論理はないのか? 生物のいない天体や時空にも実は論理は存在する、ということは絶対ないのか?

 

野矢茂樹『論理学』再読中

 (https://tokyocat.hatenadiary.jp/entry/2024/06/17/000000