ソナチネやHANA-BIは監督も役者も北野武がやっているとしたら、『首』は監督も役者もビートたけしがやっているーーそう思った。武士か百姓かと言い換えてもいい。彼は武士を理解し百姓も理解するが心根は百姓だということだろう。
刺さる矢を見て、そして能のシーンを見て、日本映画の伝統というものを、そして当然それらを意識して作っているだろうということを、思わずにはいられなかった。映画の正統は なぜかたけしなのだ。この実態を、私と同じ20世紀を生きてきた多くの日本人が誇らしくまた不思議に思っていることだろう。
ではその映画の正統というものについて(あるいは何ごとにせよ正統というようなものについて)、武士たる北野武ではなく、百姓たるビートたけしは、さてどう思っているのだろう? 足蹴にしてよい首のようなものだと本心から思っているのか? それとも、百姓として武士を心の底から恐れ、そして百姓であることを心の底では恥じているのだろうか?
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