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【2019 輪廻転生】

ゲーデル不完全性定理(「夏の宿題2020」をめぐりつつ)

どんな集合をもってきてもxが属しているなら必ずyも属しているとき「x=y」とする。「=」の定義ということになる。急にこんなことを書くと、頭がおかしくなったと思われそうだが、私としては頭が賢くなったと言いたい。

不完全性定理の本をまた読んでいる。ゲーデル熱にまた感染したと言ってもよい。

 

北アルプスは2度行ったことがある。1度は奥穂高と西穂高に登った。1度は燕岳〜常念岳大天井岳蝶ヶ岳と縦走。しかし槍ヶ岳には登ったことがない。2度とも眺めて歩いただけ。不完全性定理も似たようなものだが、いっそう遠く、厚い雲のため頂上を拝んだためしもない。

槍ヶ岳は生涯のうちに登れるだろうか。登れないことはないだろう。実は行くか行かないかの問題。あとは足が辛くても我慢して歩くこと。不完全性定理はどうだろう。生涯のうちに。案外いけるのかも。ただ読むか読まないか。そして頭が辛くても我慢して読み続けられるか。それだけの問題ならば。それだけの問題ならば…

 

<7月27日>

今回の発端は『証明と論理に強くなる』という本だった。小島寛之著。「ゲーデルの門前まで」とサブタイトルがついており、いわば上高地までは行くという感じ。

『証明と論理に強くなる』

 

そのあと、おなじみ『数学ガール/ゲーデル不完全性定理』(結城 浩)を再読。この本は、なんというか、地形図のシミュレーションで不完全性定理の頂上まで行ってみる、というかんじ。とはいえシミュレーションですら私はとうてい登れない。

 

それでもどうせならと、岩波文庫ゲーデル 不完全性定理』(林晋)を開く。これは本当に登山ができる本(論文自体を掲載)だが、そこはまだ仰ぎ見るだけにして、今回は解説だけでも本気でと読み始めたところ、予想外に懇切丁寧で驚きと感激。解説としても完璧なのではなかろうか。

『ゲーデル 不完全性定理』

おなじみ、デデキントカントールクロネッカーヒルベルトと、ゲーデルの前史に当たる数学者たちが、当然ながら語られる。つまり、不完全性定理槍ヶ岳にたとえれば、これらこそ燕岳、常念岳大天井岳の縦走。あるいは、戦国の国盗り物語ならぬ、数とり物語。

とりわけヒルベルトの歩みを非常に詳しくたどることができる。著者はこの本を書くために、ヒルベルトについて独自の研究に着手せざるをえなかったと述懐している。ありがたいことだ。

 

ゲーデルは、数学的プラトニストと言われる。つまり「数は実在している。この世界にではなく、イデアとして存在している」みたいにマジに思っていたということ。早い話が「数は神です」ということになろうか。

そうなると、ちょっと不思議なのは、ゲーデル不完全性定理は「数学というものが不完全であることを証明した」という解釈もできること。それは昔からいくらか首をひねっていたのだが、そのことについても、林晋は核心をズバリと、かつ噛み砕いて説明してくれる。

私が理解したところを書くと― ヒルベルトもまた数学を神とみなしたが、ヒルベルトは数学の完璧さを人間が完璧に使える「神学」として著した(「神学」という用語は著者も使っている)。それに対しゲーデルは、ヒルベルトの「神学」は「神学」であって神ではないよと、鮮やかに証明した。

ゲーデルにすれば、数学という神は、どこまでもイデアにあるのであり、「神学」として顕現できたりはしないのさ、といった気持ちだったのだろうか?

今のは大げさで大雑把な比喩だったけれど、それでも実際、不完全性定理を眺めてうっすら思う。数は論理や記号や言葉とはどこか1つ根本的に有り様が異なっており、数の世界で起こりうる出来事は、論理や記号や言葉では完全には写し取れず、変な何かがどうしても漏れて残ってしまうということか。

 

<8月1日>

ゲーデル不完全性定理』(林晋)、前史であるヒルベルトのいわば「数学的天下統一」への歩みを読んでいるのだが、その見立てなら不完全性定理は「本能寺の変」か? つまり数学の戦国時代においてゲーデル明智光秀? ヒルベルトは道半ばにして数学の天下統一は成し遂げられず?

それはさておきー 

この本は、数学の形式化とはいかなることなのかを、一般人にも思考できる水準でなんとか伝えようとしていると、強く感じる。見かけの堅さに似合わず実に予想外だ。論理式の意味を考えるのはやはり苦痛なのだが、それとは別に、概念や思想や哲学の話として納得と発見が多大!

《無限数学は、分量をわきまえて使えば収穫が増える農薬のようなものだった。集合論パラドックスは、その農薬を使いすぎておきた「環境破壊」だったのである》(p.196)

こんな比喩も絶妙で、なんかわかるような気がしてくるから不思議だ。

そして、その環境破壊という危機を回避するために無限数学という農薬に安全基準を設けようとしたのがヒルベルトだ、ということになる。ところが…

《別の考え方もありえる。環境問題が明らかになったとき、「徹底的に自然にかえる」傾向が生まれたように、集合論パラドックスを契機として、数学における「無限」を根底から問い直す動きが生まれることは自然なことだった》 すなわち直観主義のブラウアー。ヒルベルトにすれば《反革命勢力》

 

さて先日は、ゲンロンの茂木健一郎東浩紀対談で、二人とも数学という学問には冷淡で「パズルにすぎない」的な立場だったのが印象的だった。(「パズル」永井均を形容した弁としてだが)

 茂木健一郎☓東浩紀対談 (「日本のコロナと脳――2020年真夏の巻」2020/7/27収録)

数学は物理学のように実在する事象を対象にはしない。人間の実存や社会の実相を解明するわけでもない。

その点で数学はパズルかもしれない。しかし一方で強く思うのはーー 数学が現実とは無縁のなにかである点それこそが、数学の不思議そして意義に他ならない。しかも私が一番興味深いのは、そうした現実とは無縁の何かを私たちが何故か抱え込んでしまっている事実が、いったい何を示唆するかだ。

この世には、なんらかの現象があり、それを記述する理論がある。ふつう、現象がなければ理論はないだろうと思う。しかし本当にそうかという問いを建てることができる。現象だけが存在するのではなく、理論もまた現象とは違った形であっても存在するという見方は、むしろ一般的だ。

そのとき、もちろん「理論の存在なんて言われても、よくわからないよ」と思うわけだが、しかしそのうちに「待てよ、そもそも現象の存在なんて言われても、やっぱりよくわからないぞ」と思う。現象が絶対に先だという確信が少し揺らぐ。だったら、まさかの理論が先でもいいんじゃないか?

だんだん腰が引けてきたので、また次回。

 

<8月8日>

今回、不完全性定理について読んだのは、『世界はなぜ「ある」のか』(ジム・ホルト)つながり。つまりこれも「夏の宿題」の一環。

 ◎夏の宿題2020

 ◎『世界はなぜ「ある」のか』

 

同書の著者が「世界はなぜあると思いますか」と訪ねていった1人がロジャー・ペンローズ。彼もまたゲーデルと同じで数学的プラトニスト=数学は実在するよと言う人。

《『皇帝の新しい心』でペンローズは「心は数学的アイディアを認識するたびに数学的外面からなるプラトン的世界と接触すると、私は想像する」と述べている》

『皇帝の新しい心』は読んでいない。20年ほど前に住んでいた町の図書館でいつも手にとってはいつも棚に戻していたのを思い出す。

とはいえ、ペンローズは「世界がなぜ存在するのかというと、それは数学が実在するからです」と、著者が期待したとおりに答えるわけではない。それは「世界はなぜ存在するのか」という疑問がそもそもペンローズの主眼ではないからだろう。しかたない。

ところが、ペンローズとは別に、「すべての数学的構造が純粋に物理的な意味で存在する」「それらの抽象的な構造のそれぞれが並行世界を構成し、そのような並行世界がまとまって数学的多宇宙をつくりあげている」ときっぱり主張する人がいるそうだ。デマゴーグという人らしい。いや、テグマークという人。

さてまあ、「数学が物理的に存在する」と言われても、私にはその意味はイメージできない。しかしむしろ、「数学が物理的存在とは別の、いかなる存在なのか」ならば、これまたもう何年も首をひねっている問いだ。

ジム・ホルトは「数学とは何か」をめぐって、次のことを書いている。

数学のすべてが「もし〜ならば」の命題からなるとみなせる。二頭のユニコーンがいて、そこに二頭のユニコーンを加えるならば、四頭のユニコーンがいることになる。この「もし〜ならば」の形式は、ユニコーンが実在しなくても真である。それどころか、何もない世界でも真である。(なおジム・ホルトはこのことを、「だったら数学は世界とは何の関わりもないじゃないか、世界の存在の根拠が数学であることなど望むべくもない」という趣旨で否定的に書いている)

これこそが数学の本性ではないだろうか。

(それどころか、思考の本性もこれなんじゃないか)

こうした流れがあって、じゃあどうせなら、ここでまた、不完全性定理にでもトライしてみるか、と思い立った次第。

 

「宇宙はなぜないのではなくなぜあるのか?」「数学はいかなる所にいかなる形であるのか」。大きすぎる謎をぽんぽん口にしすぎだが、数学の謎はそれ独自に解明されるもので、数学の謎が仮に解けても、前者の謎はそれを完全にすり抜けて100%謎のまま残るだろうという思いが、実はある。