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【2019 輪廻転生】

ゲーデル不完全性定理

どんな集合をもってきてもxが属しているなら必ずyも属しているとき「x=y」とする。「=」の定義ということになる。急にこんなことを書くと、頭がおかしくなったと思われそうだが、私としては頭が賢くなったと言いたい。

不完全性定理の本をまた読んでいる。ゲーデル熱にまた感染したと言ってもよい。

 

北アルプスは2度行ったことがある。1度は穂高岳西穂高岳に登った。1度は燕岳〜常念岳大天井岳蝶ヶ岳と縦走。しかし槍ヶ岳には登ったことがない。2度とも眺めて歩いただけ。不完全性定理も似たようなものだが、いっそう遠く、厚い雲のため頂上を拝んだためしもない。

槍ヶ岳は生涯のうちに登れるだろうか。登れないことはないだろう。実は行くか行かないかの問題。あとは足が辛くても我慢して歩くこと。不完全性定理はどうだろう。生涯のうちに。案外いけるのかも。ただ読むか読まないか。そして頭が辛くても我慢して読み続けられるか。それだけの問題ならば。それだけの問題ならば…

 

<7月27日>

今回の発端は『証明と論理に強くなる』という本だった。小島寛之著。「ゲーデルの門前まで」とサブタイトルがついており、いわば上高地までは行くという感じ。

 

そのあと、おなじみ『数学ガール/ゲーデル不完全性定理』(結城 浩)を再読。この本は、なんというか、地形図のシミュレーションで不完全性定理の頂上まで行ってみる、というかんじ。とはいえシミュレーションですら私はとうてい登れない。

 

それでもどうせならと、岩波文庫ゲーデル 不完全性定理』(林晋)を開く。これは本当に登山ができる本(論文自体を掲載)だが、そこはまだ仰ぎ見るだけにして、今回は解説だけでも本気でと読み始めたところ、予想外に懇切丁寧で驚きと感激。解説としても完璧なのではなかろうか。

おなじみ、デデキントカントールクロネッカーヒルベルトと、ゲーデルの前史に当たる数学者たちが、当然ながら語られる。つまり、不完全性定理槍ヶ岳にたとえれば、これらこそ燕岳、常念岳大天井岳の縦走。あるいは、戦国の国盗り物語ならぬ、数とり物語。

とりわけヒルベルトの歩みを非常に詳しくたどることができる。著者はこの本を書くために、ヒルベルトについて独自の研究に着手せざるをえなかったと述懐している。ありがたいことだ。

 

ゲーデルは、数学的プラトニストと言われる。つまり「数は実在している。この世界にではなく、イデアとして存在している」みたいにマジに思っていたということ。早い話が「数は神です」ということになろうか。

そうなると、ちょっと不思議なのは、ゲーデル不完全性定理は「数学というものが不完全であることを証明した」という解釈もできること。それは昔からいくらか首をひねっていたのだが、そのことについても、著者は核心をズバリと、かつ噛み砕いて説明してくれる。

私が理解したところを書くと― ヒルベルトもまた数学を神とみなしたが、ヒルベルトは数学の完璧さを人間が完璧に使える「神学」として著した(「神学」という用語は著者も使っている)。それに対しゲーデルは、ヒルベルトの「神学」は「神学」であって神ではないよと、鮮やかに証明した。

ゲーデルにすれば、数学という神は、どこまでもイデアにあるのであり、「神学」として顕現できたりはしないのさ、といった気持ちだったのだろうか?

今のは大げさで大雑把な比喩だったけれど、それでも実際、不完全性定理を眺めてうっすら思う。数は論理や記号や言葉とはどこか1つ根本的に有り様が異なっており、数の世界で起こりうる出来事は、論理や記号や言葉では完全には写し取れず、変な何かがどうしても漏れて残ってしまうということか。

(続く)