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【2019 輪廻転生】

★カリスマ/黒沢清 

https://tokyocat.hatenadiary.jp/entry/2021/02/11/000000

↓(上から続く)

 

その少しあとに、黒沢清『カリスマ』を久々に鑑賞した。これも、わからないといえば、わからない映画の代表だろう。それゆえ黒沢清の代表作のようになっている。しかし面白かった。私には今なおとても面白かった。

 

では『カリスマ』はロールシャッハ・テストではないのか? ――私はこれにうまく答えられない。

 

ただし、1つ今回はっきり思ったことがある。この映画の冒頭、ある人物が示す手書きのメモに「世界の法則を回復せよ」という文言が出てくる。そうするともちろん、この映画において「世界の法則」とは何なのか、また、この映画においてそれは「回復されたのか」と問うことができるだろう。

しかし私の感触では(当然ながら)「世界の法則」が何なのかは明らかにならない。「回復されたのかされていないのかも」まったく見当がつかない。しかし、ここがポイントだが、そんなことはどうでもいいのだ。なぜなら『カリスマ』は映画だからだ。私は今回はっきりそう思って納得してしまった。

 

私が思うに―― かりに小説に「世界の法則を回復せよ」と書かれていたら、それは、その小説の中に何らかの言葉による回答や解明や決着が見つけられないと、不完全と言っていいだろう。

しかし『カリスマ』は映画なのだから言葉でできてはいない。「世界の法則を回復せよ」は言葉だが、小説における言葉の役割とは別の異質な役割を担っているのではないか。そう思いついて、私は、『カリスマ』における「世界の法則」とは何か、それは「回復されたのか」という問いをキャンセルした。

そうすることで、キャンセルできない根本の問いが明らかになる。すなわち、言葉だけでできているわけではない映画に、言葉だけでできている小説とは異なる、どのような向かい方をするのがいいのですか、という問い。そもそも映画とは何ですかという素朴すぎる問いに近いのかもしれない。

 

黒沢清の映画は、いつもいつもわからない。だから、いつもいつも、この根本の問いがどうしてもやもやと立ち上ってきてしまう。それなのに、いつもいつも、『カリスマ』においてももちろん、目や耳に入るすべては、あまりにも異様に登場しあまりにも異様に展開していく。そんな問いなど我関せずの体で。

だから感想を聞かれても、私は「あの、世界の法則というものがあってですね」といった言葉など出てこようがない。「え〜っと、ラストの遠景が、なんかとてつもなく不気味でした」というようなことにしかならない。

 

(『カリスマ』予告編)