ねじまき鳥クロニクル/村上春樹(読了)

https://tokyocat.hatenadiary.jp/entry/2024/03/04/000000 から続く

 

ねじまき鳥クロニクル村上春樹) 長くかかったが読み終えた。

シンボルの物語がシンボルのまま片付いていったという感じか(何のシンボルかは個々人それぞれが思い当たればいい。大きくは異ならないだろう。私たちの人生の道具立てはそれほど大きく異らないだろうから)

第3部は派手な展開だった。最後は活劇でもあり火曜サスペンスのエンディングのようですらあった。

それにしても、これほど鮮やかな場面場面をまったく覚えていなかったことに驚かざるをえない。自分の人生についてもこれぐらい忘れているのではないかと、マジに心配になる。

しかしそんなものかもしれない。

ねじまき鳥クロニクル』には何が書いてあったのか。どのような意味なのか。はっきり確信をもって言えることも、これからゆっくり考えたいこともあるが、ほとんどわからないことも多く、すでに忘れたこともあろう。人の人生もそんなもので、よくわからない。それほどわかろうともしていない。

もっと他の小説を読めばよかったのか? そうかもしれない。しかし私はなぜかたまたま30年近く前に『ねじまき鳥クロニクル』を読んだのだし、今またそれを読んだ。他の小説でもよかったのだが、やっぱりこの小説になった。それは結局のところ偶然でもあり必然でもあった。そう思うしかない。

 

(追記:ある読書会での報告)

ところで、村上春樹は自身が小説を書き始めたことを「ある種の自己治療のステップだったと思う」と振り返っています(河合隼雄との対談で)。たしかに、物語を語る・書くという行いがそのような役割を果たすことも大いにありそうです。そうするとさらに、河合隼雄心理療法として行っていたという箱庭も、物語を作ることに通じる気がしてきます。そんなわけで今『ねじまき鳥クロニクル』を読みながら、奇妙なストーリーの進行が、あたかも作家が箱庭療法を受けているかのようにも思えています。