東京永久観光

【2019 輪廻転生】

土曜日

さっき玄関に「聖書についてお話が…」という人が来たので断ってしまったが、これが「ゾロアスター教についてお話が…」だったらドアを開けていたかもしれないくらい気持ちのよい5月の休日。

 

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仕事しかやることがないのに、仕事だけはやりたくない、土曜日が終わる。

 

 

 

 

 

変えうるのは世界の限界であり、事実ではない(ウィトゲンシュタイン)

加藤典洋さんが亡くなった。驚きと落胆。それと71歳という年齢の早さ。そうかと思えば、きょうは、ついこのあいだまでを一緒に仕事していた方の訃報を聞いてしまった。69歳。……おまえはあと何年生きるつもりなのか? そう問わずにはいられない。

この微妙な焦燥は、死ぬ日まで雑用が終わらないんじゃないかという、微妙な焦燥なのではないか。死ぬ日が遠くないというよりも、なんだか雑用ばかりの人生で、その雑用はわいてくるばかりで、だったらそりゃ終わるわけがないねという、そんな発見なのかもしれない。

というよりも、あらゆることが雑用であるような人生は、間違っている。しかし、そのあらゆる雑用がじつは雑用でないことになるような、なにか根本的な変更が、じつは可能なのではないか?

きのうあるところで目にした以下の文言は、そういう意味なのだと思う。「善き意志、あるいは悪しき意志が世界を変化させる時、変えうるのは世界の限界であり、事実ではない 意志によって世界は全体として別の世界に変化する
幸福な世界は不幸な世界とは別ものである」論考6.43(以下より)

https://twitter.com/moroQma/status/1122495407878074368

 

状況を流水のような文章にできたらいいが、難しい。袋のなかに、発見や希望や憤怒や焦燥がいっぱい詰まってきて、とうとうどこかが破れて、ぼろっと出てしまっただけのようなツイートをしている。

 

 

 

 

★安楽死を遂げるまで/宮下洋一

安楽死を遂げるまで』(宮下洋一)を読んだ。

自分も必ず直面するテーマだと思っているけれど、きちんとした本は初めて。スイス、オランダ、オレゴンなどの制度化されたケース、日本の犯罪とされたケースなどを紹介。当事者を丁寧に取材しており、その事情がよく理解できた。そしてその方法も。

欧米では安楽死が患者の出来事であるのに対し、日本では医師の出来事であるのだと、ふと気づく。示唆的。欧米の彼らの底にあるのは、やはり、かくもと言いたくなるほどの個人主義。「自分のことは自分で決める」。対する日本では、いわば「相手のことを互いに決める」という感じか。

しかしながら。安楽死はたしかに「どう生きるか、どう死ぬか」という価値観の問題だろうが、実質的には「病気」や「老い」をどうするかというテクノロジーの問題ではないのか? そんなことにも気づかされる。

では、そもそも病気や老いを、私たちはハックできるのか? 永久にできないのではないか。そうすると、病気や老いを私たちはスルーするしかないのか? それとも、いつかできるのか?

 

安楽死を遂げるまで

安楽死を遂げるまで

 

 

 

 

 

 

★寝ても覚めても/濱口竜介

http://netemosametemo.jp/

映画『寝ても覚めても』(濱口竜介監督)

 

ディスク鑑賞。

みかけはごく写実的な物語であり映像であると思えるのに、なんかとんでもない予想外のことが起こりそうで、ずっとぞわぞわしながら見ていた。なんでだろう? 以前の『ハッピーアワー』(同監督)の後遺症だろうか? よくわからない。

たとえば、ある男が、招かれた家で初めて会った女性から舞台で演じたときのビデオを見せられて、いきなり容赦のない演劇論的な非難が始まるとか、そういうのが、やっぱり『ハッピーアワー』の驚きに似ていたということはある。

それともう1つ。知り合いだった男友達の家を、数年後に訪問すると、快活だったその友達がALSを発症していて声も出せず動きもできない状態になっていたとか。これなんかもなんの説明も理由もないようで、ちょっと引くほどドキドキしてしまった。

しかしやっぱりそれら以上に、そもそもドッペルゲンガーの話だからそれ自体現実にはありえないはずなのに、それでも役者たちはホラーでもファンタジーでもなくふるまいそれに応じ見るほうも平然として眺めざるをえないことに、どうしてもぞわぞわするのだろうか? よくわからない。

主たる展開は、考えてみれば、当然ありえる一本道と言ってよい。つまり、過去の恋人がふいに現れる、その恋人に連れされる、現在の恋人を捨てる、しかし再び過去の恋人と別れる、そして再び現在の恋人のところに戻る。

ただし、それをめぐって当然ありえる問い(彼女はどうすべきだったのか。彼はどうすればよかったのか。どうするのが善いのかなど)が深められることはなく、最後まで、答えが示されたようには感じられない。そんなことから、全体が夢を見ているようなふわふわした体験だったとも私は思う。

一人二役東出昌大が、最初の恋人の役のときだけでなく、次の恋人の役のときも、どちらも、地に足の付かないふわっとしたかんじを与えてくるのが、この映画で最も印象的だったかもしれない。『桐島、部活やめるってよ』でもそんなふわっとした感じだったから、その心地良い地が生かされているのかも。

ドッペルゲンガーは「自分自身の姿を自分で見る幻覚の一種」ということなので、この映画はそれには当たらないか。https://kotobank.jp/word/%E3%83%89%E3%83%83%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC-157342

 

そういえば、黒沢清ドッペルゲンガー』も、ぞわぞわするけど結局よくわからない映画だった。しかし、『ドッペルゲンガー』は材料や調理がまったく不明のフルコース料理を食べているようだったのに対し、『寝ても覚めても』は何の変哲もない素うどんなのになぜかその中を泳いでいるような感じ。

 

 

 

 

★すいか/木皿泉

ドラマ『すいか』を見ている。

『富士ファミリー』つながり(木皿泉)、『廃市』つながり(小林聡美)で、自然な流れ。オールタナティブな自分探し・意味探し系とでも言おうか。

笑うのと泣くのが7:3の割合。

 

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https://twitter.com/tokyocat/status/1129948407014010882

『富士ファミリー』は、恵まれた境遇でも年齡でもないぱっとしない人たちこそが主役。つまり普通の意味では幸せではなく幸せを信じることもなかった人たちが、自分の思いやペースをなかなか変えられない中でも、ふっと生きがいや喜びを見つけ出していく、そんな話だったと思う。誰にも奇跡は起こる!

続けてみた2003年のドラマ『すいか』も同じようによかった。「生きていくことは、それほど楽しくない、わけではないのかも」という気になる。

片桐はいりは素晴らしかったね。ほかの役者も不可欠だろうけど、特に彼女なしでは、あのドラマはありえないと思った。片桐はいりは『すいか』にも出てくる。それと、小泉今日子も『富士ファミリー』『すいか』ともに出てくる。この世とは少し離れた所から奇跡のサインや微笑を伝える役として。

 

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『富士ファミリー』についてはこちらにもhttps://tokyocat.hatenadiary.jp/entry/2019/04/25/000000

 

 

 

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★廃市/大林宣彦(1984)

大林宣彦『廃市』(1984

『転校生』『時をかける少女』に続く映画だが十分知られていない。私も忘れていたがツタヤにDVDがあったので視聴した。公開時以来だろう。それ以前に福永武彦の原作を読んでいたことも思い出す。この映画は青年期の回想だが、私も当時青年だったので妙な感触。

水路が麗しい柳川の旧家に、根岸季衣小林聡美の姉妹がいる。姉は夫(峰岸徹)を迎えたが、「夫はじつは妹が好きなのだ」と疑っている。そんな3人の心のうちと、それをめぐって起こった出来事を、この家に卒業論文を書くためにやってきた青年が、回想していく。

古い日本家屋を舞台に身内の隠された愛憎がしだいに明かされていく趣きは、まるで横溝正史ミステリー。実際、「誰が誰を殺したのか?」に代わって「誰が誰を好きだったのか?」という謎に、純朴な青年が金田一に代わって巻き込まれていくのだから、やはりミステリーか。

それだけでなく、映画には原作にない人物がひとり設定され、その人物が実は探偵だったのであり、最後になって「意外な真犯人」を指し示す、と捉えてもよい。結末のシーンはそんなかんじだった。

 

しかも今思い出した。映画『悪魔の手毬唄』。事件も片付いた最後のシーンは『廃市』と同じく駅のホーム。列車に乗り込む金田一石坂浩二)は、見送りに来た磯川警部(若山富三郎)に、ある重要な問いかけをする。それもまた「誰が誰を好きだったのか」の類。こちらでは真相は語られず示される!

 

参考:

http://www.oct-net.ne.jp/mhrb/yanagawa/yanagawa.htm

http://popmaster.jp/movie/akumanotemariuta/

 

あれこれ書いたが、最も言いたいのは『時をかける少女』より『転校生』より私は『廃市』を推すということ。もう1つ、青年が恋愛を回想する文体、遠く時間が隔たってもう取り戻せない寂しさ、悔み、諦め。これやっぱり福永武彦ならではの感触だと改めて確信し、つい私も遠い目になったこと。

原作で主人公の青年がその福永文体で問いかける純真な文言を、映画はときおりそのままナレーションで伝えてくる。あまりこなれないその声は、誰だろうと思ったが、最後になって、そうかこれは大林監督自身だと気づいた。そのあたりも非常に印象的だった。

 

さて話はこれで終りではない。実はこの物語との対比で『存在の耐えられない軽さ』について思うところがあった。