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【2019 輪廻転生】

世界史と他者の実在感

WindowsのWordと、MacのPagesは、リンガ・フランカが存在しない。

「リンガ・フランカ」と言ってみたかった。フランク王国に由来するらしい!

 

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先日「フランク王国」と書いたのは、最近 世界史の本を読んでいるからだ。山川出版『詳説 世界史研究』。同じ山川の高校世界史教科書を1.5倍詳しくしたような一冊。ちょうどヨーロッパ中世のところを開いていた。西ローマ滅亡、カール戴冠から、キリスト教の支配と農村社会の成立、そして十字軍。

十字軍についても1.5倍くらい詳しいので、従来の1.5倍くらいなるほどと思う。当時中東で繁栄していたイスラム世界にとって十字軍なんてISの暴虐集団と瓜二つだったのではないか(以前も思った)。現在とは立場が正反対にみえるのが興味深い。

ではもし私がここに生まれていたら? 聖地奪回という信仰的集団的熱狂を冷静に眺めるだけでいられたか? そう考える。そもそも中世の農民に生まれて小麦の世話に明け暮れるのも、騎士に生まれて槍を突き合うのも、なかなか気乗りがしない。いや、現代人の一生もそれほど褒められたものでもないのかもしれないが。

 

ともあれ、こうして少しだけ世界史が身近に思えてくるうちに、たとえば中世とは物語ではなく現実に存在したのだ、そこにいた農民や騎士や僧侶の一人一人も間違いなく実在したのだと、実感されてくる。

これは要するに「他者は実在する」という実感ではないか。なんとすごい発見だろう!

 

さらに私にはそれが何を意味するか。

「世界はなぜ無いのではなく在るのか」というおかしな疑問に長くとらわれている。そして世界の存在にも私の存在にも決定的な根拠がないことが不思議でしかたない

私はなんとなくずっとそんなかんじなのだが…、ここにきて、西洋中世の農民や騎士という、自身からはてしなく遠いものが、ふと本当に実在していたんだなという思いが立ち上がってきた、ということを意味する。

そうすると、だったら、もっとごく近くの今のこの世界も私自身も周囲にいる人々も、根拠はさておき、同じように実在していてもおかしくないだろう。なんかそんな奇妙な納得感に包まれる。

 

そして1つ思い出したことがある。保坂和志『〈私〉という演算』にある「写真の中の猫」。保坂は子供のころの自分の写真に一緒に写っている猫がいて、しかしその猫の記憶を自分はもっていないことに気づき、あれこれ思いを巡らせる。

《「自分が生まれるよりずっと前に生きていた犬や猫がいた」》

《ぼくが、伝えたいのは、それだけだ》

《しかし、このことはぼくにとって、たとえば「愛しています」の一言のように複雑だ》

《それ以上何かを考える必要なんかなくて、そのことをリアルに感じたそのことだけでじゅうぶんに意味がある。あるいは、それだけでじゅうぶん意味があることなのだから、それ以上何か意味をつけ加える必要はない》

《しかし、それがどういう意味なのかということは考える必要がある。ぼくの中のどんなリアリティに訴えかけたのかということだ》

《猫や犬が自分が生まれる前からこの世界に存在していたことも当たり前のことだけれど、そのように「よく知っている」と簡単に言い切れるかどうか、自分でも分からない》

だいぶ前に読んだときのメモを抜き書きした。実は、このあとに続く部分から、はっきりした主張や結論を、私は今なお見い出せていない。それでも、この体験を通して保坂はなんらかの「たしかな実在感」に触れたのではないか、それは私が今回感じた実在感に通じるのではないか、と思っている。

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もう1つ。旅行で海外に行って飛行機やバスでどれほど遠くに行こうが、どこにもごく普通に人がいて、私のとはかなり違った土地や風習なのに、ごく当たり前のこととして日々を過ごしている。これもやっぱり「他者は実在する」という実感だろう。遠いのが時間なのか空間なのかの違いだけ。

私がまったく知らないところに、私がまったく知らない人が、ずっと実在しているのだから、他人がまったく知らないところに、他人がまったく知らない私が、ずっと実在しているとしても、それはおかしなことではない。本当に(実際に)在るものだけは本当に(実際に)在ると言うしかないだろう。

 

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21世紀 哲学の転回

哲学史には「言語論的転回」というのがある。「何が本当か/なぜ本当がわからないか」には、言語こそが関係するから、言語の解明こそが不可欠だね、といった態度変更を言う。(それまでは認識=意識こそが真理に関係するとみてきた)

この「なんとか的転回」に倣うなら、21世紀の現在は、哲学に「自然主義的転回」「メディア・技術論的転回」「実在論的転回」という3つが起こっている、と『いま世界の哲学者が考えていること』(岡本裕一郎)は述べている。なるほど、さもありなん、いとおかし。

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自然主義的転回」では、神経科学(脳科学)を踏まえた哲学を同書は強調している。ただし、私が特に興味をひかれたのは、知的な行動は「脳と身体の共同作業」や「認知と行為の共同作業」でしか捉えられないとするアンディ・クラークの発想。

たとえば、《計算するという「心」の働きは、紙と鉛筆、それから書くという身体の動きと連動してはじめて可能になるわけです》。そう同書は書いている。

そのほか、この本では、道徳もまた神経科学で解明できるとする「ニューロ・エシックス」さらには「行動経済学」までも、「自然主義的転回」の一種とみる。なるほどそういうものかと思う。

なお、この本は触れないが、「自然主義的転回」というなら、記号や意味を人間の観念のみならず自然現象において捉えられないか、生物一般の行動や知能において捉えられないか、という探究こそがそれに当てはまると思う。最近読んだ『哲学入門』(戸田山和久)やデネットの本はまさにそうだろう。

◎哲学入門/デネットの本

https://tokyocat.hatenadiary.jp/entry/2019/03/02/072423

https://tokyocat.hatenadiary.jp/entry/2019/09/03/000000

 

「メディア・技術論的転回」では、ドブレという人の主張「中間者こそが力をもつ。媒介作用こそがメッセージの性質を決定づけ、関係性が存在よりも優位に立つ」を紹介。さらに、哲学の対象として技術は無視されてきたことを紹介しつつ、技術を考察せずして人間は理解できないと同書は強調している。

まったくそのとおりだと思う。そして、「メディア・技術論的転回」というのは、早い話、日々私たちがツイッターしていて考えざるをえないことを指すのであり、それどころか、日々私たちがツイッターしているそれ自体を指すのだと、私は確信する。

そうした意味では、進行中の「メディア・技術論的転回」は、進行中の私たちにしか理解できないし実践できない。アリストテレスデカルトもカントもデリダドゥルーズすらも、ツイッターのおかしさ・とんでもなさは、知らなかった。

 

実在論的転回」は、実際は「思弁的実在論」や「新実在論」と呼ばれる。この括り方の出現により現代思想の潮流としては「ポスト構造主義」は過去のものになったかっこう。思弁的実在論の代表とされるメイヤスーの『有限性の後で』は、私も解読に挑戦した(が、大キレットで滑落)

参照:https://tokyocat.hatenadiary.jp/entry/20180826/p1

 

さて、『世界の哲学者が考えていること』は、この3つの転回を踏まえつつも、人工知能、バイオテクノロジー、資本主義、脱宗教化、環境保護とかなり多彩なテーマから多くの論者と思想を点描している。これらは哲学というより、もっと日常的・直接的に考えさせられている問題なので、参考になる。

そのなかで最も気になったのは、やはり「ポストヒューマン」という観点(これは『ホモ・デウス』のゴールでもあった)。現代の私たちは、<「神」は虚構だったかなとようやく目が覚めたとおもいきや、「人間」すら虚構かもしれないとうっすら疑い始めた>局面にいると言えるだろう。

そのわかりやすい問いに「遺伝子操作やクローン人間はあってはならないのか」というものがある。それに関して同書はハーバーマススローターダイクといった少し古い哲学者を紹介しているが、なぜか2人ともドイツ人なのが印象的で、「ドイツの哲学」という括りが私には初めて浮上した。

 

◎参照(ホモ・デウス

https://tokyocat.hatenadiary.jp/entry/20180917/p1

 

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(10.30)

だれの日常にも、仕事もあれば哲学もあり科学もあり芸術もある。ただ、周囲も自分も終止追い立てられ かまってばかりいるのは仕事なので、仕事だけが毎日どんどん実践され改良され充実する(ときに破綻する)。

哲学や科学や芸術は意識して手を打たないと何十年も停滞する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年10月22日 覚え書き

https://twitter.com/selfcomestomine/status/1185590074039095296

山や河には心なんてないのにあるかのように思いこむ。それと似たことで、人間にも心なんてないのにあるかのように思いこむ、ということか! 

実際にはきわめて多様で散漫でしかない感情や意思が1つに統合されて感じられるのは、天皇が「国や国民統合の象徴である」ように感じられることと、とても似ている。すなわち、心の象徴および心の統合の象徴として「私」というアイコンが作られている。

 

しかし翻って思う。

心(私)というものが持続的・安定的に存在していると感じるのは「錯覚ですよ」と言われても、「う〜ん」と首をかしげたくもなる。「国家なんて錯覚だろ」と言われても「それは知ってるけどさ」とぼやきたくもなる。「天皇は錯覚」と言われても同じなんだろうか?

 

天皇制は宗教の1つ。そして宗教はみな錯覚。はい終わり」という見方もあろう。しかし、多くの宗教に比べて、天皇制はあまりにも網羅的だ。あまりにも均質的だ。あまりにも微温的だ。

 

天皇制が歴史の事実として良いものか悪いものかという探究とは別に、「天皇は良い日本の象徴だ」と思うのも、「天皇は悪い日本の象徴だ」と思うのも、どちらも自由だろう。ただ、どちらも頑固でもある。端から見ても自らとして見ても。

 

ところで、私は天皇制の観察者であっても天皇制の当事者でもある。余裕で観察だけできるのは、遠くの英国のブレグジットとかシリアの地獄とかだけ。

 

◎即位礼正殿の儀の直前 雨上がり虹かかる

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191022/k10012143691000.html?utm_int=detail_contents_news-related_004

「ほらやっぱり自然や地球にも心があるじゃない!」

 

https://www.dailymail.co.uk/news/article-7599277/Japans-new-Emperor-Naruhito-enthroned-centuries-old-ceremony.html

過去の霊長類から進化・継続して現在のヒトがあるように、過去の社会から進化・継続して現在の社会があることを、ちょっと実感する。

これらすべての旧弊から本気で逃れたいとおもったら、ホリエモンみたいに生きるしかないね。

 

 

不条理と冠詞

あいかわらず仕事は不条理だが、そもそも世界が不条理なので、受け流すことにする。

不条理と言ってから不条理ってどういう意味だっけ? と思い、検索したら、「英語部」というサイトがあり、そこの解説がとてもわかりやすかった。

ついでにそこにあった「冠詞」の解説を読んだら、これまた秀逸!

 

不条理

https://eigobu.jp/magazine/fujouri

上記によれば: 

《「不条理」は実存主義の用語です。

哲学における「不条理」は、「世界に意味を見出そうとする人間の努力は、最終的には失敗せざるを得ない」といったことを主張しています。

フランスの作家カミュの不条理の哲学によって知られています》

私のことかな? というわけで仕事のほうの不条理はもはやどうでもいいかね? かな? かね?


冠詞の使い分けでは、最後に出てきた村上春樹の例が非常に面白かった。彼は「羊をめぐる冒険」の「an auther」なのか、「the auther」なのか、はたまた「auther」なのか、と。

https://eigobu.jp/magazine/a-an-the

 

(追記)あとから思うと仕事は不条理というほどではありませんでした。

 

 

愚かさ競争

◎「給食のカレーやめます」教員いじめで保護者説明会 https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000167039.html

愚かなニュースは私には救済と慰安。自分はさすがにここまで愚かではないと気が楽になれるから。かくして、私の愚かさのほうは、手つかずで放置・維持される。

同じく、たとえば国会の愚かな与党と野党のニュースを見て、世界を知っているつもり・叱っているつもりになるのも、なんと愚かな私であることか!

議論と水は低きに流れる。やがて、軟弱な知性の堤防を越え、私の安普請の思考をなぎ倒す。

「重大な民主主義への挑戦である」(Who said ?)