東京永久観光

【2019 輪廻転生】

★歴史認識を乗り越える 日中韓の対話を阻むものは何か/小倉紀蔵


歴史認識を乗り越える (講談社現代新書)


冷静にして遠慮のない分析と主張。こうした本は貴重だとおもった。以下は、メモ(整理されていない)


ヒロシマ原爆ドームの展示では、落とした米国を道徳志向的に糾弾するのではなく、あたかもエノラ・ゲイは8月6日の朝に突然宇宙のかなたから飛来した物体であるかのように、あくまで科学的に分析されている。敵の不在。原爆投下という行為の主体はどこにも存在しない。(同書より)

韓国の場合。敵とウリ(われわれ)を峻別し、敵はどこまでも悪であり、正義はあくまでもウリの側にあるという、メリハリのきいた世界観。しかも、明らかに侵略する側に韓国が身を置いたベトナム戦争の展示においても、あくまでもウリは「強く正しく勇敢」であったと主張していた。(同書より)

知覧の孤立。

著者はここで以下のようなことを述べている。「典型的な西洋近代の見方では、天皇制下の日本人は主体性が欠如しているようにしかみえないが、それは誤解である。日本人民衆に主体性(subjectivility)が欠如していたのではない。それを知るには、東アジア的な意味での主体とは何かを考えなければならない」

日韓は対等な関係を築けていないと著者は考える。

韓国人にゆるしてもらう日本人。韓国人につねにおびえて応答しようとしている日本人。韓国人の顔色をうかがっている日本人。しかし、相手は、植民地支配も第二次大戦も朝鮮戦争も経験したことのない21世紀を生きる若い韓国人であり、しかもその歴史認識は一枚岩であり誤謬も多い。《そのような韓国人が韓国人であるというだけですべての日本人を審判し、糾弾し、ゆるし、未来を開く〈主体〉として「君臨」することが、はたして「対等」な関係といえるのであろうか。》(中略)《私は、そう思わない。》

ナショナリズムグローバリズムに関しての一言。《いかに商品の魔手から逃れた領域を確保するか、という議論が一瞬に反転して、いかに全体を巧みに商品化するか、とう語りに変わった。グローバル・マーケティングの思想から自由な領域は今やこの日本に、なくなりつつある。》

これはこれで100回みんなに言い聞かせたい文言である。

さらに続いて、これに呼応するのが、〈非主体勢力〉とも呼びうる、互いに異質だがある共通の土台を持つ巨大な勢力だという。つまり政界、産業界、マスコミの一部、学界の一部。

非主体勢力は、大衆文化という武器によって日韓の交流を推進している。しかしこれのみで歴史が真に融解するとはとうてい思えない。リアル・ポリティクスの世界から遊離した、机上の空論の世界での話なのである。(同書より)

この問題(歴史認識というか戦争責任というか)を原点から考える道は一体どこにあるのかと、著者は問い、まずこう述べる。

《日本のナショナリズムを無条件に封鎖しつつ韓国のナショナリズムには必要以上に包容的であるような立場も、また逆に日本のナショナリズムに火を付けることを事とするような立場も、またナショナリズム自体をはなから否定する立場も、正しくはないだろう》

ここはまったく同感。

新しい日本の教科書をつくる会歴史観は基本的に中華思想である。

《「新しい日本の教科書をつくる会」の歴史観は、中国・韓国の歴史観と〈主体性〉を競い、互いの序列を争うという関係にある。そのような排他的な歴史観が、東アジアのよりよい未来をつくるとは思えない。
 だからといって、同じく排他的である中国・韓国の歴史観にわれわれが合わせればよいというものではない。
 より自由なのは、日本なのである。そうであるなら、中国・韓国の歴史観を、長い目で見て日本の方に引っ張ってくるというのが、よりよいアジアをつくるための日本の役割であろう。》

日本の右派のように、韓国の植民地近代化を日本が誇るのは行き過ぎだ。日本はあくまで自国の利益のために近代化を進めた。

《しかし、歴史上の事実を隠蔽し、あたかもほとんどの朝鮮人は抗日的で、ごく少数の親日派のみが近代化の片棒をかつぎ日本に協力したと描くのは、端的に誤謬なのである》

しかし、このような歴史の描き方の背景にあるのは、儒教的な意味での「歴史の道徳化」(同書より)

《歴史は民族という〈主体〉が道徳的に自己を実現してゆく舞台であり、その舞台ではすべてのものに毀誉褒貶の価値が付与されており、自民族こそ道徳的で日本は不道徳、というレッテルをアプリオリに貼り付けている。すべての歴史的行為はそのレッテルから演繹的に導き出されることになるわけで、ここに正邪の歴史を媒介した国家の序列が非帰納的に固定化されるわけである。》

韓国や中国の反日的な歴史観は、ただ支配や侵略へのリアクションとしてだけではなく、儒教的な歴史観にも基づいていると言う指摘であり、非常に面白い。

日本とドイツの比較。

《「普遍的=ドイツ的あるいは西欧的」だと考えるなら、植民地支配・侵略戦争従軍慰安婦などの問題に関しては「謝罪しない」のが普遍的である。日本はそこを踏み出している。その意味で日本はあきらかに特殊である。しかしこの特殊は、植民地支配・侵略戦争従軍慰安婦などの問題に対して謝罪し反省する特殊性なのだから、むしろドイツ乃至西欧の普遍よりはさらに良心的な特殊性なのである》

ドイツはナチの時代の戦争犯罪を公式に謝罪している、とフランスの歴史家アラン・コルバンは言うが、日本も過去の出来事に公式に謝罪している事実を、あまり知らないのではないか。ここでいう「ナチの時代の戦争犯罪」には、植民地支配や軍隊の性管理の問題は含まれていないはず。日本はドイツより一歩踏み込んで、これらのことに対しても謝罪と反省をしていることについて、西欧の知識人は無知なようだ。(同書より)

テッサ・モーリス=スズキ「記憶と記念の強迫に抗して 靖国公式参拝によせて」
『世界』2001年10月号

《日本では、アジア・太平洋戦争での敗戦の記憶が戦争を勝利の栄光とともに記念することを困難にしている、まさにそれゆえに、戦争を記憶する新しい仕方を想像することはほかの国より容易なはずなのだ。日本は「栄光ある死者」を国家が顕彰するという強力にポピュラーな伝統の重荷から免れている。こうした意味で、日本こそは変化しつつあるグローバルな秩序のなかで、戦争を記憶する新たな場と実践を発明するのにふさわしい場所なのである》

新しい歴史教科書や小泉総理の靖国神社参拝は日韓関係を悪化させた、という見方をマスコミはした。

《しかし私の見方はそれとは逆だった。すなわち、この歴史認識問題は、日韓のよりよい関係作りのきっかけになる、と思っていたのだ。
 日韓のマスコミや学者は、何をこわがって騒いでいるのだろう、そんなに摩擦自体がこわいのだろうか……》

2001年の歴史教科書問題の際には、1982年の歴史教科書問題の時のような、激昂、世論沸騰はなかった。むしろ、《韓国では、日本を非難すべきだという認識と同時に、なぜ自分たちの国には歴史教科書が一種類しかないのか、という疑問も生じていたのである。》

日韓関係の劇的な変化。北朝鮮という共通の課題が現れたから。さらに2003年に、両国はともにイラクに派兵した。両国ともに賛否両論が渦巻いた。

日韓の間では東アジアに向き合う姿勢がかなり異なっているが、共通なものが一点ある。それは北朝鮮の脅威である。

在日との共生について(これは簡単にしか述べられていないが)

<おわりに>
《本書における私の核心的な主張のひとつは、日本には「センターの軸」がない、一刻も早くこれを作りあげることが必要だというものである。
 日本には、これまで、ともに特定メディアに用語された温室育ちの巨大な二陣営、すなわち「右派」と「左派」しか存在しなかった。
「右派」は、一体自分たちの野郎時代的な主張が現実外交において何らかの有効性を持っていると考えているのであろうか。それは運動のための運動というべき自閉回路の永久運転にすぎないことに、よもや気づいていないわけではあるまい。
 他方で「左派」は、一体中国や朝鮮半島ナショナリズムに対して何か現実的なヴィジョンを持っているのであろうか。「反省し謝罪する日本」という自己像の提示のみによって、平和かつ自由で民主的な東アジアが将来にわたって魔法のように実現してくなどと、よもや本気で考えているわけではあるまい。》

《「右派」が東京裁判の不当性を主張し中国の「内政干渉」を糾弾したところで、東京裁判をもういちどやり直したり中国が歴史カードを放棄したりするということはありえないのである。また「左派」が主張するようにすべて中国や韓国の気に入るように日本が振る舞ったとしても、それだけで理想的な東アジア共同体ができるなどということはありえないし、ましてや国民国家止揚してナショナリズムを超克しようなどといっても、その清澄な声が今のアジアに届くわけはないのである》

《さて、この「センター」の軸は、具体的には「謝罪し国際貢献する日本」というものであるが、この軸はあくまでも「自由と民主主義」という土台の上に立てられてあるべきだと、私は本書で語った。
 そして日本の役割は、アジア全体を、自由と民主主義というフィールドに引っ張ってくることである。そして歴史認識の問題も、朱子学つまり中華思想的な〈主体〉の序列化(それは幻影の争奪戦にすぎない)という観点からではなく、自由と民主主義の土台の上で語り合うこと、このことが重要なのである。
 そのためには、日本人にはもっと誇りが必要だ。
「誇り」といってもそれは無論、ナショナリスティックな自尊心という意味では全くない。すなわち中国・韓国に対抗するという形でわれわれが中国化・韓国化(すなわち中華思想化)するのではなく、逆にわれわれの歩んできた道をアジアにも歩んでもらいたい。そして自由と民主主義の土台の上で、真摯に対話し、そして真摯に反省したい。そのような意味での誇りである。
 すなわち、逆説的ではあるが、もっと真摯に反省するために、日本人は誇りをもってアジアをリードする必要があるのである》

《そしてこの概念(*センターの軸の概念)には、「東アジア的枠組み」が包摂されている必要がある。ヨーロッパにおいて市民社会という普遍的な枠組みの形成が、「精神」「心」などという「文学的」「宗教的」「哲学的」な概念を土台として形成されたのと同様に、東アジアにおいても新しい普遍的な枠組みを、「魂」「心」などという概念を高度な政治思想にまで練り上げる作業を通して気づかなくてはならない》

「欧米的枠組みによる新しいアジア主義」ではなく、「アジア的枠組みを包摂した新しい普遍性の獲得」を(同書より)