東京永久観光

【2019 輪廻転生】

でも読書のほうがストレンジャー


きのうはネットばかりしていた。ほんとにネットしかしなかった(ちらっと新宿のデモを見に行ったが)

何万年か前なら、人間は毎日毎日食糧採集しかしなかったのだろうか? そのころ日曜日はなかったのだろうか? 人類は進歩したのだろうか? 原発生活もヘンかもしれないが、ネット生活もヘンだ。


とはいえ、言語生活こそが人間の証なら、一日中おしゃべりをしたり一日中本を読んだり一日中ネットしたりしているのは、人間らしいともいえるか。

とはいえ、井戸端会議などの言語生活は生きて動いている人とのコミュニケーションだが、読書などの言語生活は文章とのコミュニケーションだ。ツイッターはどっちなのだろう?(ちなみにデモはどっちなのだろう?)

ひとりで考えることと、だれかと話すこと、われわれには両方とも必要で、どちらが欠けても甲斐がないように感じられる。

ツイッターは、うまくやればその両方が可能。読書はどうだろう?

本を読むということは、ひとりで考えることと、だれかと話すことの、両方をしているのだと、いうようなことを言われることが多かった。しかし実は、読書は、ひとりで考えることでもなく、だれかと話すことでもなく、どちらともまったく違うことをしているのではないか。

なぜなら、本においては私の考えがそのまま文字になるということはありえない。しかも本は、私がいくら話しかけても問いかけても、その文章は文字はいつまでも固定されていて変化しない。

いつまでも変わらない文字の列をひたすら一方的に読むしかないのが、読書。

文字や文章に触れるとしたら本などしかなかった時代がとても長かったので、当たり前のようになっているが、読書というのは、言語生活としては、非常に特異なことなのではないか。

ツイッターなどのネットの読み書きは、個人がいくらでも好きなように参加できるし、文字や文章はいくらでも追加され変容していく。なんだか今じゃそっちのほうが普通になったことで、読書の文字や文章のありかたの特異さに、やっと気づいた。

(ちなみに、佐々木中の『切りとれ、あの祈る手を』は次のことを何回も強調している。読んで理解することなどできないにもかかわらず、ひたすら読むことこそが、文学なのであり、革命なのである、といった趣旨のことを) asin:4309245293

(ちなみに、本はネットと違って誤植はあとから修正できないんだよ、まったく、という趣旨のことを、東浩紀さんはきのうツイートで強調していた)

読書とネット。20世紀と21世紀を比較して、ネットのほうが増えたという人ばかりだろう。逆だという人はいるのだろうか? それは果たして良いことなのだろうか? 

もしも過去の人や未来の人が現在の私たちをみたらどう言うだろう。「それでいいよ、本なんか捨てなさい」? 「それはよくないよ、ネットなんか捨てなさい」?