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【2019 輪廻転生】

SEALDsと東アジア若者デモってなんだ!/福島香織


 SEALDsと東アジア若者デモってなんだ! (イースト新書)


=こちらからの続き=

前ふりっぽいシールズのパート、全体像が詳しくわかる台湾や香港のパートに続き、同書は中国のデモについてもリポートしている。ここは台湾・香港の話に増して面白かった。それはなぜかと考えると、中国で起こっていることを、私は、台湾や香港で起こっていることに増して何にも知らないからなのだ。そう気づかされた。

たとえばアメリカで起こっていることなら、いち早く幅広くブログやニュースで出回り、日本でも常識になりやすいと思うが、中国で起こっていることは、わりとそうでないのではないか。どちらも同じ大国で日本への影響も大きかろうに、これはけっこうまずいのではないかと反省する。

さて同書には何が書いてあったか。大規模デモのほとんどが官製であるという指摘、89年の天安門を知らない世代のデモの特徴、それらも面白かった。しかしそれ以上に、中国の現在の世相を象徴するようないくつかのデモの、様相や背景のリポートが、非常に興味深いものだった。以下に少し書き留めさせてもらう。

1つは、2011年に広東省烏坎村で起こった反乱。この村は党幹部の一族が支配し村の土地を勝手に売り渡して私腹を肥やしてきたという。そこに選挙をめぐる不正がもちあがり、ついに村人数千人が激しい抗議行動に出た。武装警官とも衝突した。日本の自治体ではさすがに考えられない規模の悪事だと思わされた。さらに、逮捕されて死亡した村人の代表者の一人には、爪をはがされ歯を折られ棍棒で体中を殴られるという拷問の形跡があったという。

あまりにひどいではないか。べつに遠くのシリアではなく、ほんのそこにある中国の話なのだ。どうにも読み捨てるわけにはいかない気がした。

もう1つ。2010年ごろから広州郊外の日系自動車工場では労働者のストライキが頻発したといい、その発端になった本田の工場での騒動。20代前半の一人の若者が決起したそうで、ある朝《出勤すると、ラインを停止させる赤ボタンを押して、ストライキを呼びかけたのだった》という。この意表をつくような行動が面白いと思ったが、それに加え、その若者の以下の境遇を読んで身につまされた。《一度、武漢大学を目指して受験するが不合格になった。浪人する余裕は農村家庭になく、家計を助けるために広州に出稼ぎに出た。〇七年に操業開始した南海本田工場に就職したが月給は一三〇〇元、実家に毎月六〇〇元仕送りすると、苦行僧のような暮らしをするしかなかった。街で派手な音楽がかかる若者向け衣料品店の前を通るとき、服を買いたくても買えないから速足で通り過ぎたという。一時間五元のネットカフェでのネットサーフィンと、携帯電話のQQ(インスタントメッセンジャー)での情報交換が唯一の彩りだったという》

これ、日本の若者に酷似しているではないか。

ふだん中国から伝わってくるニュースといえば、途方もないバカバカしさが目立つものが多く、ついその奇天烈さを味わうように接してしまう。しかし、同書が描く中国のリポートには、私たちと同じような時代の状況にあって同じような貧困、焦燥、諦観にさらされている人々の姿が感じられたのだ。中国の人々に初めて親近感を覚えたということかもしれない。ジャ・ジャンクーの映画『罪の手ざわり』もなんとなく思い出された。

さてこのように、中国を空想物語世界ではなく現実隣国社会として捉えたとき、なぜ中国はこうなのだ? という当たり前の問いが生じる。その答えには、当然すぎることながら、時の政権による強圧的な政策が横たわっている。それに関し同書は、たとえば以下のように書いている。

習近平政権のイデオロギー政策は明確で強硬だった。二〇一三年五月大学で「七不講」として、七つの議論をしてはいけないことが通達された。普遍的価値(人権・民主)・報道の自由・公民社会・公民の権利・共産党の歴史的錯誤・司法の独立・権貴資産階級の七つのテーマについて、その是非を口にしたり、考えることすらタブーとしたのだ》。これは《習近平の“毛沢東がえり”とも言うべき凄まじい西側民主主義イデオロギー拒絶政策》の一貫だともいう。

しかもそれが口だけではないことを示すために、空前の知識人狩りを行ったという。そして《「お前らは馬鹿になれ、余計なことを考えるな」という習近平政権の明確なメッセージを受け取った頭のよい大学生は、率先して馬鹿で無知のふりをして一切、文化大革命公民権運動も興味のないふりをした。あるいは実際に興味を無くしていった》。

では、中国の若者は政権に対してもはや完全に牙を抜かれてしまったのか? 著者はかすかな希望も探している。たとえば、北京駐在が長いある特派員はこう話したという。「中国の今の若者の政治批判スタイルは、主に、ネットで冗談交じりに、遊び感覚でゆるく、ときに諦観も交えて揶揄する感じです」。

熱湯の中であえて生ぬるくやっていくその感じは、やっぱり、どこかの国のだれかに少し似ているかも。


トランプをめぐるてんやわんやを物見遊山で眺めているけれど、米国の政治経済社会は日本のそれと切っても切れない関係にある。しかしまったく同じくらい、習近平の強圧がもたらす中国の政治経済社会のゆがみも、日本の私たちに無縁であるはずがない。マジにもうちょっと中国をウォッチしないと、まずいのだろう。


(追記)もうひとつ言っておくべきことがあった。これまで中国のデモが報じられても、なぜ今回のように親身になれなかったかというと、「反日」ばかりが強調されたからであり、そのため「中国ひどいね」という気持ちだけがかきたてられたり、あるいは「日本ひどかったんだよね」という気持ちだけがかきたてられたりしたからだ。たしかに「反日」の要素は見逃せない点だが、中国のデモはそれだけではない。同書はそこも十分分析する。そして「反日」を超えたところに、日本人の私が中国人の誰かに共感できる何かが確実にあるのだ。