ダーウィンの危険な思想/ダニエル・デネット(続々々)

https://tokyocat.hatenadiary.jp/entry/2024/11/27/000000

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ダーウィンの危険な思想』最大の成果は、「超越的・神秘的なものなどなくても人間は進化のアルゴリズムだけで出来上がる」というデネットの確信を私も改めて確信したことだ。しかしもう1つある。この確信と真逆の立場としてポール・デイヴィスが言及されていた。それをどうしても述べておきたい。

なぜならポール・デイヴィスは「人間のようなものが自然法則だけで出来上がるとは信じがたい」と繰り返し主張し、しかも私はその特異な思索にこそ強くひかれてきたからだ。私はデネットと同じ無神論者であり、同時にデネットが除去しようとする無神論への懐疑者でもあったのだ。図らずも発覚した!

 

そして実はもう1つ衝撃があったーー デネットによれば西洋では古来この世界を「神>精神>デザイン>秩序>カオス>無」という階層構造で思い描いてきた。ところが進化論は「カオスから秩序が生じ秩序からデザインが生じる」ことを立証した。生物というデザインは神も精神もなしでOKと。

さてしかし、非常に興味深いことに、この話の最後にデネットは「……となると、残るはカオスとか無だけだよね(主旨)」と言う。ところが「……カオスや無? いやその説明は、もうええでしょう(主旨)」とお茶を濁すだけだったのだ!

つまり、カオスや無の説明だけはカンベンしてよということ。実際にデネットが引いているのは《なぜ何もないのではなく、何かが存在するのか》ーー哲学史上最大とも評される文言だ。そしてこれについてデネットは次のように述べる。

《もしもこの疑問が知的な課題となるのであれば、「神が存在するからだ」という答は、おそらく他のどの答にも劣らず有効なものであろう。しかしこういう代案だってある。「何かが存在していて、どうしていけないのだろう。別にかまわないではないか」》

面白い。つまりデネットはこの疑問だけは答えられないナンセンスな疑問だとみる。言い換えれば、サジを投げる。

そしてもちろん、この「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という疑問こそは、私のここ数年における最大の思索課題だ。ーー私をよく知る人(たとえば私)なら、そんなことは周知のことだ。

それでこの話はここからが本題だが、デネットはサジを投げたようで、さすがの徹底精神ゆえか、注のページに、「なぜ何もないのではなく、何かが存在するのか」については、ノージックが魅力的な検証をしている、と一応記しているのだった。

ノージック? そう通常リバタリアニズムの提唱者として知られているロバート・ノージックが、なんと、この問いを真正面から取り上げたことがあるという。しかも著書は翻訳されていた。『考えることを考える』(青土社, 1997年)。……これは読んでみるしかない。図書館で借りてきて開いた。

 

ここまでを整理しておくーー デネットの考えは「人間は進化のアルゴリズムだけで出現できる。神は想定しなくていい」。一方ポール・デイヴィス(イギリスの理論物理学者)の考えは「人間が自然法則だけで出現したはずがない」。そしてこれに絡んで、というか絡んで絡んでどうなるかというと…

「神はいるのかいないのか」という問いを、ぐるぐるぐるぐる考えつめていくと、「この世界は、なぜ無なのでなく、なぜなにかが有るのか」という問いに行き着く。私は行き着くと思っているが、デネットも思いがけずそう言ってるから力が湧いてきた(ただ、この問いだけは「もうええでしょう」だが)

 

それで、この「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」をめぐっては、まずWikipediaがかなり参考になる。

また、ズバリこのテーマで幅広い考察が味わい深く繰り広げられる書籍『世界はなぜ「ある」のか?』がある(私も熟読した)。

そして今回、初めて知って手にしたのが、ロバート・ノージック『考えることを考える』だ。

 

※以下は、私が参加している読書会のサイトに投稿したレビュー。

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ダニエル・C・デネットダーウィンの危険な思想』。これが私の今年の一冊です。

あらゆる生き物が、そして人間というすばらしい造形物もまた、ただただ自然の営みだけで、つまり進化というからくりだけで、作られた。それはみんなわかっているはず。それなのに「いやそうは言っても、深いところで、見えないところで、なんらかの超越的なもの、神秘的なものが、関わっているんじゃないか。そうでなければ、このような知性というようなものや、心というようなものが、できあがるわけがないだろう」と、多くの人が内心では信じているフシがある。デネットはそれが気になってしかたない。そうした内心の信仰をことごとく完璧に打ち砕きたかった。そのために、これほど分厚くこれほど執拗な叙述の一冊になってしまったんだなと、確信しました。

デネットは今年亡くなった哲学者です。それもあり忘れられない読書になりました。また新装版として昨年末に出たばかりの本でもありました。

というわけで結局、デネット無神論者であり、それに付き従う私も無神論者であることが、読めば読むほど明らかになっていくわけです。ところが実をいうと、私は同書のなかに「無神論をくつがえす可能性のかけら」も見つけました。そのかけらとは「この世界がそもそも完全に無ではないことの説明だけはできない」というものです。デネットはこう言っています「もう、ええでしょう」と。いや言ってはいませんが、その地面師たちのような態度で、この問いを遠ざけています。では、無が説明できないとなぜ無神論がくつがえるのでしょう? それを説明しだすと年が明けてしまうので、また来年の読書会で!

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