東京永久観光

【2019 輪廻転生】

私も東京から考える


東浩紀北田暁大『東京から考える』asin:4140910747

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ショッピングセンターやファミレスなどが郊外の幹線道路沿いにボコボコと並び建つ。日本のいずこでも顕著なこの光景。人々の生活や感覚もそれに応じて変化していると思われる。こうした現象は「郊外化」「ジャスコ化」などと呼ばれる。

実際この光景は、私も郷里でつとに目にしていたし、東京在住後も少し遠くへ足を伸ばせばいやでも実感する。毎度「いやはや」とつぶやきたくなる。

この都市構造の変質に、さて東浩紀はどうコメントするだろう。と思って読んでいくと、あっけない見解に出会う。要は「避けられないのだから仕方ないし、いくらか必要でもある」(引用ではない)というかんじ。たとえば――。

東 《僕としてはそれは必ずしも否定すべきものではないと捉えている。というのも、そのジャスコ的世界は、ある意味で安全で清潔な世界だからです。(略) 少なくとも東京のなかに侵入しているていどのジャスコ的空間は――、適度にバリアフリーで、適度に監視カメラが設置され、適度にベンチやゴミ箱が配置された「住みやすい」空間でもある。そのようないわば「人間工学的に正しい」空間が、いまコンビニやファミレスと結びついて、東京といわず日本中を侵食し、風景を画一化している。人間集団の多様性はその傾向に抗う力を持たない。

いくらか様相を異にした郊外化も指摘される。新興住宅地のマンションを業者がしつらえたライフスタイルの物語とともに買うといった形のもの。東が子どものころ住んでいた横浜の青葉台を例に描写される。また、これらの郊外化が都心にまで及んでいることも、対談で明らかにされていく。

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その一方、郊外化をなお免れている街として挙げられるのは、下北沢だ。

もちろん私は近所なのでよく知っている。入り組んだ路地に、雑貨や衣料のちっぽけな店とか気のきいたカフェやパブがごちゃっと詰め込まれ、芝居小屋とライブハウスも集中。「とにかく飽きないなあ」と歩きながらいつも感心する。ところがこの下北沢に大きな道路を通し高層ビルも建てようという計画が進んでいる。反対運動も起こっている。けっこう有名なトピックだ。

その「下北沢を守れ」という声に対しても、東は、おやっとおもうほど冷淡にみえる。そんなものサブカル趣味もしくは懐古趣味でしかないといった主旨。

東 (道路建設に賛成ではないし是非を判断するほど事情を知らないが)《ただ、反対運動についての報道を見ていて、妙に下北沢のサブカル的側面が強調されているような気がして、そこは気になったんですね。「サブカル都市・下北沢を守れ!」は「高級住宅地・青葉台を守れ!」と同じ論理じゃないですか。

東 《この観点から見ると、下北沢や秋葉原の「個性」の正体も分かります。結局のところ、そこで語られているのも世代問題ではないか。下北沢も秋葉原も「世代の街」なんですよ。

東 《しかし、新しい世代は、もしかしてその高層建築物のある下北沢を「自分たちの街」と思うかもしれませんよね。そのような状況のなか、特定の理念なく都市景観を守れと、しかも住民ではないひとびとが集まって言うとすれば、それは結局、大人になった元サブカル少年が「僕の想い出を残せ」といっているのとどう違うんだろう。実際に、何度も述べているとおり、僕が住む西荻窪はそういう思いで守られてきた街だと思いますが、僕は住人としてそこに不気味さを感じるんですよ。

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東のこうした発言の背景には、ポストモダン社会の条件という観点がある。

というと難しげだが、つまり「人の好みは十人十色」ということだろう(大滝詠一「趣味趣味音楽」の歌い出しでもあるが、それはそれとして)。個人ごとに違った趣味や価値をそれぞれ自由に展開できることが最も大切なのだから、そのためには都市の基盤には勝手な色をつけてはならない、むしろ工学的な設計だけに従って安全でアクセスしやすいことこそ優先すべきだ、といった立場だと思われる。

東 《こういう話では、街の個性が市場主義で覆われて消滅した、という図式が立てられることが多いんだけど、僕はむしろここでは、街の個性が衝突している対象は、ポストモダンの多様性肯定の論理だと思うんですよ。

東 《ポストモダン社会は多様な人間集団の共生を公準としている。したがって、街には老人も子どもも来られなくてはならないし、いろいろなひとが楽しめなければならない。だとすれば、やはり清潔で安全な「人間工学的に正しい」街区を作るしかない。そう考えたら、あとは細部に金をかけるかどうかぐらいで、全体としては似たような街ができるに決まっている。

みんなこぞってiPodを使うけれど、聴く音楽は個々の趣味で自在に選び取れる、そんな情景をここに重ねてもいいだろう。人間工学を追求して量産されるiPodというツール自体が世界を覆っていることに、眉をひそめても仕方がないと。

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都市の郊外化を東がさほど毛嫌いしないことに関連し、もうひとつ刺激的な言及がある。

東 《郊外に行くと、ヤンキー夫婦が赤ん坊を連れて、サンダルとジャージでペタパタ歩いてたりするじゃない。ああいうの見ると「ああ、こうやって、みんな殖えていくんだな」と安心するわけです。TSUTAYAでガンガン映画を借りて、コンビニでガンガン買い物して、カラオケにガンガン行って、生きていくダイナミズムというか。そういうのは大事だと思いますね。

こうした生活のありふれた実相は、本の終盤で改めて注視され、新しいナショナリズムの契機すらそこから出てくるかも、といった大きなテーマにつながっていく。

東 《社会契約としての国家は、いくらでも相対化可能だし脱構築可能なんですよ。だから、「これからコミュニティはみんなサブカル化する」なんてことも平気で言える。けれども、世代的な連続性で支えられるネイションのほうは、そう単純には解体できない。

東 《生殖は、その脱構築に抗うもなにも、そもそも脱構築できない存在なんですよ。言いかえれば、それはリベラリズムポストモダニズムの外部にある。

東 《それで話を展開すると、僕は、ナショナリズムの問題は、まさにその外部からやってくるから厄介だと思うわけです。国民国家幻想や愛国教育はいくらでも脱構築できる。しかし、いくらその脱構築を進めたとしても、人間はそれでもやはり「自分は両親から生まれ、彼らもまた両親から生まれ……」という現実に囚われてしまう。そして、その現実がナショナリズムの錯覚を生み出す。それもまた錯誤なのかもしれないけれど、そもそも人間がそういう錯誤を行う動物だとすれば、それを前提にして社会設計を考えなければならない。これはイデオロギーの問題ではない。

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東の見解の全般的まとめ――。

東 《いずれにせよ、話を結論めいたところに持っていくと、僕がこの連続対談で東京を素材として言いたかったことは、人間は主体である前に動物であり、そしてその動物性がいまや、都市デザインを含め、社会システムの根幹を直接に決めはじめているということです。二〇世紀の思想家たちは、主体の脱構築、社会の脱構築をえんえんとやってきた。ところがその結果、いまや脱構築不可能な、生物学的身体としての人間だけがナマでごろんと転がっている、という感じがする。そしてその事実性を前にすると、思想家たちは驚くほど言う言葉がない。

現代が初めて直面した状況を、東浩紀は「動物化する人間」「環境管理型の社会」といった新しい概念で次々に射抜いてきた。ではその動物化や環境管理に対し、東自身の好悪や是非はどうなのか。これまで微妙な立場にみえていたが、この本ではかなりはっきりした。その点が非常に興味深い。

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北田暁大は、東がどんどん繰り出す直言に完全に同意するわけではない。が、そのつど嫌な核心を突かれたことは認めざるをえない、というかんじ。しかも面白いことに、東が直感的に何か言うと北田はすぐにそれを理解し、しかも用語をさらに吟味していっそう説得力を増した表現できれいにまとめる役目を図らずも果たしている。ただしそのうえで北田は、それでもシコリのように残る疑問をきちんと返す。

北田の引用は少しだけになってしまうが、逡巡と抵抗そして良心の弁として。

北田 《一方の僕は、どうしても人間的なリーズナブルネスの可能性に期待しているところがある。「権利」への思考が「事実」を変えていく可能性を期待している。都市の風景と構造とが、ジャスコ的に郊外化していく趨勢を不可避と考えつつも、都市風景の総郊外化には違和を感じるし、一定の歴史性を帯びたコミュニティの価値観を都市風景に反映すべきだとも考えている。セキュリティとかバリアフリーといった論理は、最低限共有すべきだけれど、ある程度の多元性は保証されるべきではないか、すべてを人間工学的な論理に包摂すべきではないのではないか、ということですね。これは、身体的・動物的な共感可能性に還元されない、されるべきではない問題がある、という先ほどの話にも繋がってくるわけです。

以下も似ているが、北田による「あとがき」から。私の態度、議論の方向は二重化していると言う。

北田 《第一に「現代社会において「人間工学が他の論理をoverride(蹂躙)する」という意味づけが広まりつつあることを、安易に否定できないだろう、とする方向性。

北田 《もう一つの方向性は、にもかかわらず、「人間工学が」ではなくあくまで「人間工学の共同幻想が」社会を動かしつつある(と考える)わけだから、共同幻想脱構築は完全に不可能ではないだろう、とするもの。東さんはそうした脱構築は不可能である、工学の作動そのものは脱構築の外部である、というかもしれない。しかし、私は共同幻想である(と考える)以上、何らかのかたちで意味的な違和を持ち込むことができるのではないか、と考えている。

北田 《第一の方向性のゆえに、私は「ジャスコ化」を全否定することはできないし、また人間学的な否定の有効性にも懐疑的な態度をとっている。しかし、では人間工学に抗いようがないのかと言えば、それが共同幻想であるからには、何らかの糸口はあるはずだとも考えている(第二の方向性)。

生物学的な事実はイデオロギーの問題ではないとする東の主張に対しても、異論を唱える。

北田 《それはよく分かります。総論賛成です。》《ただ、その知恵を紡いでいくうえで、「何がイデオロギーの問題には還元できない生物学的な"どうしようもなさ"」なのかは、かなり慎重に、かつ個別的に議論していかなくてはならない。実際、歴史的に見れば、生物学的"どうしようもなさ"の内容はずいぶん変わってきたわけですね。(略) "どうしようもなさ"の内実についての見解は東さんと僕とで違っているかもしれません。

こうした北田の反論の先行きに耳を傾けなければ、少なくとも私自身がムズムズしている気持ちのすべてはあぶりだすことができない、と思った。

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私自身の気持ち。たとえば郊外化を眺めての「いやはや」というつぶやきだ。たしかにその正体は、東が言うとおり「まあそのほうが売るほうも買うほうも圧倒的に便利だし、もう仕方ないよね」なのかもしれない。とはいえ、そうした郊外化とそこに順応する自分に、なんとも言えぬ無力感やあさましさをおぼえもするわけで、その理由を本当に納得できるまで突きつめたい。

それともうひとつの気持ち。下北沢はもちろん消えてなくなってほしくない。これは単純だがあまりにも疑いようのない実感だ。ノスタルジーや個人の趣味と言われればそのとおりかもしれない。しかし、下北沢を歩いてあれほど楽しいことには、もうちょっと別のそしてより本質的な価値や理由もきっと指摘できるのではないか。

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なお同書では、「都市共感のバーチャル化」とでも呼ぶべき傾向が察知されている。やや隠れたテーマにみえるが、これまた新鮮かつ納得の説だった。

東は、青葉台に住んで渋谷に通っていた学生時代を振り返ってこう述べる。

東 《こう言えばいいのかな、いわばキャラクターの僕とプレイヤーとしての僕がいてですね、キャラクターとしての僕はずっと渋谷にいる、でもそれはあくまでもキャラでしかない、プレイヤーとしての僕は青葉台にいるけど、リアリティーはゲーム内空間にある、とそんな感じなんですよ。》(渋谷は)《「モニタのなかの地元」みたいな感覚なんです。

キャラクターとプレイヤーという二つの自己を前提にすること、しかもそれを都市論にもさらっと適用するあたり、さすが東の真骨頂と言える。

このことは、対談で出てくる「エスニック・コミュニティの変質」という話にもつながっていると私は思う。代表的にはコリアン系とチャイニーズ系、新たなものとしては西葛西に出現しつつあるというインド系などのネットワークの存在が、今はランドスケープとしては必ずしもあらわにならない、というのだ。

じゃあ現実の風景ではなく何がコミュニティを支えるのか。それは一様ではないが、ときには「韓国」というブランド意識であったり、ときには仕事を共にする連帯感であったり、ということが対談から読み取れる。さらにその底には、あまりにもグローバル化した消費社会の浸透がやはりある。これらはみな、実際に歩いて眺める街の風景とは別の何かであり、要するにバーチャルな体験というか観念のほうに多くを負っているかもしれないわけだ。

北田 《この街(*北京の五道口という新しいコリアンタウン)が発展する上で重要な役割を担っているのが、おそらく「韓国」という記号と深く結びついた消費文化の浸透です。北京の若者たちにとって韓国というのは、消費文化を象徴するブランドになっています。

北田 《物理的な空間によって担保されるエスニック・タウンではなく、グローバルな消費社会の論理によって構成されるエスニック・タウン。だからこそ、物理的空間の強引な整備にもかかわらず、活気ある「エスニック・タウン」「若者の消費都市」となることができる。大げさに言うと、文化的ストックではなく、資本のフローがこの街のアイデンティティを担保しているわけです。

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長くなったが、私の意見を二つほど。

(1)

下北沢や吉祥寺という街を私はいくらか自分のこととして語るが、それはまさにプレイヤーではなくキャラクターとしての親近感なのかと、気づいてみたりする。一方で、たとえば「はてなダイアリー」を自分のリアルな居場所のように感じ、ときには「はてな国に住んでいる」という意識すら生じることがあるのは、それと裏腹な話なのだと考える。

参考:http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20041205#p1

そうすると、今流行のセカンドライフSecond Life)はその究極形であり、郊外マンションの一室にいながらあらゆる趣味的な都市やテーマパークに直にテレポートし住んでいる実感すら持てる、ということなのかもしれない。

だからといって、下北沢でも近所のつまらない路地でもいいから実際に歩いてみて全身で感受されるものごとの、バーチャルには収まりようのない豊穣さや直接さというものは確実にある。忘れてはいけないのは(誰も忘れてなんかいないから、お節介なのかもしれないが)、そうした豊穣な直接の体験であることは言うまでもまい。たぶん19世紀であれ、なつかしの20世紀であれ、さらには21世紀の少なくとも初頭の今もなお、明らかにそうだと私は言いたい。

(2)

『東京から考える』には「格差・郊外・ナショナリズム」という副題がついている。その格差については、一言付け加えておきたい。

郊外化する都市といわれて私がまずイメージするのは、ホンマタカシの写真にあるような、巨大で管理の行き届いた、言い換えればゲート化されたマンション群のエリアだ。あるいは、青葉台が例にあがったごとくアッパーミドルな物語を共有させる不動産開発のイメージだ。そこに住むそれなりに大勢の都市住人は、土日ともなれば確実に休めて、夫婦や親子でちょっと小粋な服装もしながら自家用車に乗り込み、幹線道路を走ってファミレスへジャスコに向かい、安全で清潔なその空間のなかでそれなりに散財できる。そんな日常が続いているのだろう。

いやそれはべつに悪くない。現在の事実としての幸福感とはおそらくそういうものを指すのだ。

でもまあ、東京には、あんまり安全でも清潔でもない住居とほとんど休養のない働き場しか持てず、しかも温かい家庭も郊外のファミレスに乗り付ける車もない、そんな人々も同じくらい大勢存在するだろうと、私は実感している。

国道16号線ジャスコ化の著しいエリアとして同書が名指している)の光景を「荒々しい」と同書は述べている。また六本木などについてすら、テーマパークという別の意味の郊外化にさらされた無教養な都市として、いわば見下している。

しかし、その六本木も国道16号線も含んだ関東平野ののっぺりとした大地には、みえない地模様のようにして広がっている、もっとひどいものが他にあるではないか。名もない私鉄沿線のどこで降りてもまったく同じように埋め尽くされている、あまりにもさもしい貧乏長屋の大ランドスケープのことだ。そうしたもうひとつの大勢の都市生活者が、ジャスコ化・郊外化・テーマパーク化の裏面としてやっぱり確実に存在する。こちらの郊外化そして埋没化の実態を、さあどうしてくれよう。



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http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20070409/p1
上記トラックバックが刺激になったので、以下追加します(4.9)

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東浩紀北田暁大 ふたりの状況に対する姿勢の違いは、同書によれば、
「事実」重視:「権利」重視
ローティ的:ロールズ
(ただし、北田はローティは自分も好みだとも述べている)
というふうに整理できそう。さらに私が思ったのは、
現在とりあえずどうすればいいのか:将来ほんとうはどうなるべきなのか
発見的:分析的
こういうふうに対照的かなと。

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「人間にとって生殖は脱構築できない」について。

それが幻想であるとしても、少なくとも私が生きている今ここでは、どうせ絶対に解けない幻想なのだ、と理解している。

(でも、ポルポト時代のカンボジアでは、親子関係はどうだったのか、映画『キリング・フィールド』が、本当かどうかさておき、少し描いていて、あれがもし本当なら、たしかに親子関係も脱構築可能かもしれない…)

でもまあ、親子のつながりや、生殖にたいする本能感覚を、完全に変えたり消したりしてしまうのは、貨幣や所得の制度や概念を捨てるのと同じくらい、難しいのだろう。あるいは、外山恒一石原慎太郎を破って都知事になるくらい現実味がない?

だからそんなことを吟味しはじめたらキリがない、議論しても時間の無駄、とも言えるのか。

それと関連すると思うが――

だからそういう脱構築不能な問題はさておき、この社会に解決すべき問題は他にも山ほどあるのだから、どうせなら、たいていの人が「明らかに痛い、辛い」と言いそうなもの(たとえば、飢餓とか? 戦乱とか?)、そういうものを、私たちの共感の土台にしようよ、みたいなことを、東氏は同書で述べていた。

問題を論じるばかりで手をこまねいているより、はっきり感じる痛みを見つけて、直接手を差し伸べることが大事なのだ、という主張か。ローティという人も、そういうところがあるのだろう。

永久的な真理よりも便宜的な実践のほうがとりあえずありがたいのは、十分ありえること。おろそかにすべきではない。けっこう私もそう言いたくなることはある。

一方、北田氏は、東氏のそうした事実の指摘や実践の重視には同意するものの、だからといって「その反動で永久の真理をつかむ努力を放棄してしまうのはダメだ」と考えているのだろう。

北田氏には『責任と正義』というなかなか長く難しい著書があり(私は熟読完読したのが自慢)、あの書にあったような、粘り強く息の長い論考をやり抜く知性として、北田氏は貴重なのだと思う。

ナショナリズムとか国家とかはどうなんだろう。グーグルがなかった過去に、グーグルがある現在を想像できなかったように、国家がある現在は、国家がない未来を想像できないだけで、もしかしたら私たちの目の黒いうちに、国家脱構築の実現も、絶対ないとは言い切れない? (外山都知事の実現が絶対ないとも言えない程度には)