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【2019 輪廻転生】

高橋さん大車輪


柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方 asin:430901917X


こちらは高橋源一郎柴田元幸の対談集。初出の対談が3つあり、その1つ「小説の読み方」日本文学編では、海外に紹介したい日本の小説として2人がそれぞれ30作品を選んでいる。

へえ〜と思ったのは、高橋源一郎がその30冊を「ニッポンの小説」と名付けていること。これまでの「近代日本文学」や「現代日本文学」というカテゴリーではやっぱりしっくりこない作品が増えてきて、暫定的に「ニッポンの小説」とカタカナにした、ということのようだ。

これは、以前に単行本化された評論が『ニッポンの小説―百年の孤独』だったことの種明かしでもあろう。また、先のエントリーの(http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20090518#p1)『大人にはわからない日本文学史』で挙げられていた、ごく最近の小説の呼び名としてもふさわしいのだろう。

おもえば、これまで高橋源一郎は『日本文学盛衰史』などで「小説を書く気持ちって明治の作家も現在の作家もじつは全然変わらないよね」という点を強調していた。ところがここに来て、まったく逆に、過去100年との断絶にこそ目を向けていることが改めて明らかになった。やはり興味深い。

では、そうした「ニッポンの小説」をこの対談ではどう評しているのか。

たとえばだが―― 《「ニッポンの小説」とたとえば戦後文学とどこが違うかっていうと一概には言えないんですけど、やっぱり言葉が壊れているとしか言いようがない。酔っぱらっているというか(笑)》

それは以下の問いにもつながる。

今回「ニッポンの小説」という基準で選んだのですが、いくつか疑問が残りました。僕が選んだ作品の特徴は、日本語の問題として特徴的な表現なのか、後期資本主義に突入した社会で文学がたどらねばならない必然的な道なのか、それともそのミックスなのか。アメリカもイギリスもフランスもみんな後期資本主義の段階に入っていて、そういう中でそれぞれの国の小説は苦闘を強いられていると思うんですが、そういう一般性の中に解消されるのか》と。

そして答えというほどではないが、すぐにこう述べる。《なんとも言えないのだけれど、少なくともその病理は他の先進資本主義国の文学よりも早く進行しているのではないでしょうか》。

これに先だって柴田も、同じことをもっとはっきり宣言している。《今回のようなリストの形で、もしまとまった数が海外で紹介されれば、日本の小説がいかに自由か、と言ってもいいし、いかに壊れているか、と言ってもいいですけど、そういうことがわかってもらえる気がします。大体もう八〇年代くらいから、ずっと僕はアメリカの小説より日本の小説のほうが自由だと思ってきたので、この場で改めて言っておきたいですね

なお、こうした文脈で選ばれた「ニッポンの小説」30作に、高橋源一郎は自作として『君が代は千代に八千代に』を入れている。ここは「やっぱり!」という気がして妙にうれしく思った。一言では紹介しにくい連作小説なのだが、高橋源一郎のまさに現在進行中の気分もしくは作風を代表する一冊なのではないかと秘かに思っていたからだ。自身は《いや、単にこの小説を気に入っているだけで》《変な言い方ですが自分がアメリカ人だとして何が読みたいかというと、『君が代は千代に八千代に』ではないかと思ったんです。何の知識もなくても読めるはずです》などと言っている。


ニッポンの小説―百年の孤独
  → http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20070417#p1

君が代は千代に八千代に
  → http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20031030#p1


ちなみに、第1章「小説の書き方」は、文藝2006年夏号「高橋源一郎特集」の対談。それについても以前紹介した。
  → http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20061209#p1
  → http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20061211#p1


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ところで、先のエントリーで「近代文学とともに近代社会そのものが終わる」みたいなことも書いた。今いちばん考えたいのは本当はその点なのだが、それは次回。


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なんと高橋源一郎の『いつかソウル・トレインに乗る日まで』(小説)も今読んでいる。ちょっと村上春樹っぽいのではと感じたりもするが、先はまだぜんぜんわからない。