司馬遼太郎はこの長い小説で、明治維新から西南戦争に至る時代を、徹底的にかみ砕き腑分けしながら繰り返し繰り返し記述していくのだろう。西郷という人物がいかなる人物であるのかをとにかく見つめたいという願いがゆえに。
薩摩藩というあまりにも特異な集団を知った驚嘆そして抱いた憧憬。その実感がひしひしと伝わってくる。その中心にいるのが西郷隆盛。西郷という人物をいかにすれば描けるのかと作者は常に思案している。とても描ききれないという畏怖と困惑の念もまったく隠していない。
台湾をめぐる大久保利通と中国との息の長い交渉も読み応えがあった。
全10巻をちびちび読み続け、現在5巻の途中。
★素粒子/ミシェル・ウエルベック
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20140111/p1
★かわいそうだね?/綿矢りさ
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20140127/p1
★ぬるい毒/本谷有希子
この小説を脚色した芝居(夏菜主演)をNHKでちらっとみて、通り過ぎがたく、原作を読んだ。芝居ではモテ男のおそろしさを感じたが、小説ではモテ男に惹かれる女のおそろしさを感じた。
★道化師の蝶/円城塔(芥川賞)
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20140921/p1
★永遠の0/百田尚樹
世間が罵るほど不快ではなく、むしろ、戦闘機とは何か、爆撃機や攻撃機との違い、あるいはミッドウェイ、ガダルカナルなどの海戦の基礎知識が得られた。
ただ、「特攻隊は9.11の「テロリスト」とは違う」という主旨の記述が気になった。特攻隊が100%悪ではないという主張の裏には、9.11は100%悪だという価値判断があると思ったからだ。
それでまた今年は「イスラム国=ISIS」という、またひとつ特異な集団が注目を集めているので、こちらもまた特攻隊の特異さとの比較をしてしまう。
遠い昔の自分の国の特攻隊と、遠い国の自分の時代のISIS。私にとってどちらのほうが「明らかに頭おかしい」度合が大きいかという問いだ。「頭がおかしいのが常に私では絶対にないのか」という問いでもある。ISISや特攻隊が100%頭おかしいと言い切らないなら、その問いは現実的だ。
さて映画『永遠の0』もみた。特攻隊の批判なのか賞賛なのかは案外どうでもよく、それより、物語も演技も台詞も何かを説明する目的にしか機能していないので、エラそうに言うと「こういうの映画じゃないよね」という残念感が先に立った。
★女のいない男たち/村上春樹
昔の作風に戻った感があり懐かしかった。
★ジュリアン・バーンズ/終わりの感覚
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20140627/p1
★ニシノユキヒコの恋と冒険/川上弘美
映画も小説も、彼がなぜいいのか=彼がなぜモテるのかを、理屈を超えたところで描写する。それぞれ映像または文章によるいくつもの場面を通して。鑑賞者も日々この世を理屈ではなく冷徹にして甘美な現実として見聞きしているから、ニシノユキヒコの現実にも100%共感してしまう。――川上弘美にも井口奈己にも白旗を挙げるしかないということだ。以下断片的に。
どちらも巧者だと思う。監督も作家も。しかし当然ながら、監督が作るのは場面だ。カットだ。場所や人物だ。人の表情と動きだ。カメラのサイズとアングルだ。
映画を先にみた。主役を竹野内豊の代わりにもしも西村賢太が演じても成立する世界なのか、と思った。
小説のニシノユキヒコは外見が特定されていない(描写されていない)ようだ。イケメンとは書いてないのだ。でもイケメンにしか見えないのは、現実がそういうものだからか、あるいはモテるのはイケメンでしかありえないという私の思い込みか。それにしても、映画は原理的に外見を特定しないわけにはいかないのに小説はそうではないところがおもしろい。
小説を読んで思ったが、描かれているのは、結局のところ、男にとって都合のよい女なのではなく、女にとって都合のよい男なのではないか。連作のいずれでも、登場する女に個性はあるけれど、恋としてはいずれも普遍性のある恋として書かれていると思われる。つまり一般的な女を様々に描いているにすぎない。個性は人それぞれだが恋愛となれば全員が同じ一般的・普遍的な女なのであり、そうした一般的な女にとっての恋愛対象として100%面白い(満足できる)男が、ニシノなのだ。
小説の「まりも」から以下引用。《女自身も知らない女の望みを、いつの間にか女の奥からすくいあげ、かなえてやる男。それがニシノくんだった。どれもなんでもないようなことだ。望む時間に電話をかける。望む頻度で電話をかける。望む語彙で褒める。望む甘え方をする。望むように叱らせる。なんでもないことであるがゆえに、どんな男も上首尾には行えないこと。それらのことを、ニシノくんはやすやすと行った。いやな男だ。男にとっても、女にとっても》
モテ男の強引さ(「いやな男だ」)を、このように軽妙ではなく過酷に語ったのが、上の『ぬるい毒』なのかもしれない。
やっと読んだ。いやはや。その一言につきる。
が、「孤独と諦観」、この、もしかしたら日本の国の人に特有の境地が、ここにはあるのではないか。
初めて付き合った女性と別れたときの状況について。貫太はこう言う。
《しかし貫太はその状況を、平生は特に寂しいとか慊いとか思っているわけではない。何度も言うように、根の本質もさることながら、更にそこへ他者と交わるに一種の諦観と恐れと云ったものが後天的に生じ、それをかかえたままの状態で人格形成期を経ててしまった彼には、所詮精神的には百人の友人よりも、一杯のコップ酒の方がよっぽど心の支えとなるようでもあった》(p.37 単行本)
友人らしき日下部が出てきたところで、ちょいと『黒沢』っぽい自省反省が入って、また面白くなってくる。意固地なわりには素直な軽薄な殊勝なところもある貫太。
読了。いやはや、の印象は、どんどん強まっていき、ただ終わる。
『ニシノユキヒコの恋と冒険』と『苦役列車』を続けて読んだわけだが、天国にしかありえないような至福感と地獄にしかありえないような至福感だった。
★フラニーとゾーイー/サリンジャー(新潮文庫 改版)
「フラニー」のみ読む。若い女子の過剰なほどセンシティブなこの感覚。『ライ麦畑でつかまえて』の内容はもう忘れたが、この感覚が若い男子の視線として描かれていることだろう。
★春の庭/柴崎友香(芥川賞)
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20140920/p1
★シュガーな俺/平山瑞穂
上の「道化師の蝶」のところで、言語をテーマにした小説=言語とは何かについて書いた小説ということについて述べたが、それは難しい話ではない。たとえば『シュガーな俺』は糖尿病をテーマにした小説=糖尿病とは何かについて書いた小説だ。したがって、たいていの小説が人間をテーマにしていると仮定した場合、この小説もまたそれを免れていることになる。いやまったく、糖尿病とは何か、そのメカニズムや食事療法が、この小説を読むと正確に知ることができる。
★小説教室/高橋源一郎(再読)
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20140502/p1
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読んだ本の感想は常に書き残そうと思いながら、今年も はや9月。いずれ人生の感想のまとめも間違いなく同じことになるだろう。
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↑ 2013年の読書記録 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20131217/p1
↓ 2014年の読書記録 (2) http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20141230/p1