東京永久観光

【2019 輪廻転生】

★転向論/吉本隆明

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20180408/p1から続く


先日は、吉本隆明が論じていたと知って、中野重治「村の家」を読んでみたわけだが、そのあとに、その吉本が「村の家」を論じた「転向論」(1958年)を読んでみた。

 マチウ書試論・転向論 (講談社文芸文庫)

吉本は要するに、サヨクが転んでウヨクになってしまうとは日本ならではの最悪の悲惨だねと言っている。しかし同時に、そもそも転ぶ必要のなかったサヨクなんてのは日本の現実にまったく無関心な最悪の傲慢だよと言っている。(いずれも私の意訳)

なんというか、現在の私(たち)のサヨク根性やウヨク根性もまた、この古い批判に耐えるものなのかを、胸に手を当てて省みなくてはいけないだろう。

もうちょっと詳しく紹介すると―― 

サヨクが転んでウヨクになってしまう日本ならではの最悪の悲惨」というのは、「転向論」では次のように書かれている。

《知識を身につけ、論理的な思考法をいくらかでも手に入れてくるにつれて、日本の社会が、理にあわないつまらないものに視えてくる。そのため、思想の対象として、日本の社会の実体は、まないたにのぼらなくなってくる》。しかし《この種の上昇型のインテリゲンチャが、見くびった日本的情況を(*引用者註:例えば天皇制を、家族制度を)、絶対に回避できない形で眼のまえにつきつけられたとき、何がおこるか。かつて離脱したと信じたその理に合わぬ現実が、いわば、本格的な思考の対象として一度も対決されなかったことに気付くのである》

《このときに生まれる盲点は、理に合わぬ、つまらないものとしてみえた日本的な情況が、それなりに自足したものとして存在するものだという認識によって示される》(*引用にミスがあればご容赦を)

一方の「そもそも転ぶ必要もない傲慢なサヨク」というのは、「転向論」では次のように書かれている。

《日本のインテリゲンチャがとる第二の典型的な思考過程は、広い意味での近代主義(モデルニスムス)である。日本的モデルニスムスの特徴は、思考自体が、けっして、社会の現実構造と対応させられずに、論理自体のオートマチスムによって自己完結することである》

その日本型モデルニスムスは、《はじめから現実社会を必要としていない》《自己の倫理を保つのに都合のよい生活条件さえあれば、はじめから、転向する必要はない。なぜならば、自分は、原則を固執すればよいのであって、天動説のように転向するのは、現実社会のほうだからである》(禿同!)

そして、《プロレタリア文学運動の解体期に行われた「右翼的偏向に関する論争」において、林房雄亀井勝一郎、徳永直、貴司山治、藤森成吉などを、批判した際の、小林多喜二宮本顕治宮本百合子などの倫理》こそが、後者の典型だと吉本は断じている。

こうしたスターリニズム的なものへの批判は、吉本隆明に長く一貫していたようで、かの「核戦争の危機を訴える文学者の声明」 (1982年) に対しても、徹底して拒絶の姿勢を示した。(同じく今回読んだ『「反核」異論』に収載されている「停滞論」や「「反核」運動の思想批判 番外」による)

 「反核」異論 (1983年)

ところで、「核戦争の危機を訴える文学者の声明」 (1982年) は、「湾岸戦争に反対する文学者声明」(1991年)と、名称は似ているんだけど、日大と日体大が別であるように、別であるので、注意しましょう。まあ似てるんだけど(吉本隆明は同じく非難している)

なお、個人的に―― 

1980年代はたしかに世界でも日本でも「反核」のムードに満ちていたことが思い出されるのだが、そこには吉本からすればスターリニズム的な国際的な戦略があり、私たちはそれに踊らされていた、ということになるので、『「反核」異論』は、まるきり他人事でもない。

湾岸戦争に反対する文学者声明」(1991年)のほうは、柄谷行人高橋源一郎が中心にいたことから、私には特に気になるものになっていた。さらに加藤典洋がこれを真っ向から批判したが、本人いわく、そのせいで文芸評論の仕事から長いあいだ干されたというのも、興味深い。

干された加藤典洋が復活するのが『敗戦後論』(1997年)で、これはどちらかといえばサヨク批判なのだが、その後20年を経て、加藤典洋高橋源一郎とはタッグを組んでいると言えるほど、文学的・思想的に寄り添っているようにみえるのもまた興味深く、長生きはするものだというのが、本日も結論。

……いや、結論はまだ早い。本題は中野重治だ。吉本隆明は「転向論」で、中野重治の「村の家」だけは、罵倒した2つのインテリゲンチャのタイプとは違うと言っている。その論旨は明瞭だが、これらについては中野重治自身の弁も聞いてみたい。

実際、中野は「『文学者に就いて』について」という文章を書いているようなので、今度はそれを読もう。また「村の家」は、吉本以外にも長年にわたり多くの作家や批評家が論じているようだ。江藤淳大江健三郎柄谷行人加藤典洋などなど。この際、それも読んでみたい。