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【2019 輪廻転生】

長いからもう終わろう


大人にはわからない日本文学史高橋源一郎 asin:4000271016


近代日本文学を特徴づけてきたのは「自然主義的リアリズム」や「私」という表現形式だった。しかし、現在書かれているいくつかの日本の小説には、そうした表現形式の失効が明らかに感じとれる。――こうした主旨のことを、高橋源一郎は具体的な作品から読み解いていく。そして、その変化がもたらされた背景や経緯、さらには、その変化が私たちの歴史や言葉全体という大きな観点からみていかに重大な意味をもつのかを、考察していく。

現在の小説としてはいくつかの作品が引用され、それぞれ従来の表現形式からどう隔たっているのかが慎重に分析される。いずれもなるほどと目を開かされるが、なかでも特に説得力があったのは、ニートワーキングプア風の人物が登場する岡田利規や前田司郎の小説を、100年昔のワープア記ともいうべき石川啄木『ローマ字日記』と比較した考察だった。

また、同書が最後の最後に持ち出すのは、またもやというべきか、やはりというべきか、中原昌也。対する日本近代文学の正統としては、志賀直哉『暗夜行路』、太宰治津軽』、耕治人『そうかもしれない』の3作が呼び戻される。そりゃこの両者じゃ誰が読んでもたしかに違うさと言いたいが、では実際本質的な差はどこにあるのか、明確な答えがひとつ示される。

さらに、じつは同書の考察は近代文学100年にとどまらない。はるかそれ以前から私たちを拘束してきた言葉のOSがあるのではないか、という疑いにまで飛んでいく。それに絡み、そもそも物事に始まりがあり終わりがあると私たちが考えるのはなぜか、言い換えれば、文学を含めた様々な歴史の存在を自明のものとして想定するのはなぜなのか、といった根源的な謎にも迫っていく。

さてさて。近代という構図は21世紀になってあっけなく崩れ消えつつあるのではないか。そんな観測が個人的にもじわじわ広がっている昨今。この一冊は、その観測がさほど誇張ではないことの新たな証拠ともなるだろう。私はなによりその衝撃を強く感じた。それは文学問題であるとともに社会問題でもある。


 *引用などを以下に追加


 (1)

自然主義的リアリズム」というのは、とくに定義されないが、明治以後のたいていの小説の基盤というか文体というか調子というか、小説といったらこういう文章に決まってるよねというか、これが特定のイズム=書き方だったなんて思ってもみないというか、そういうものだろう。高橋源一郎は、私たちの文学やことばが100年間続いてきた「OS」、という言い方もしている。あるいは――

そこにあるものをどれだけくっきり写しとることができるかということに関して、これまで人間が発明したもっとも完璧な技術といっても過言ではありません》p.28

自然主義的リアリズムによってなにを表現できるのか――近代文学の黎明期を担うことになった、主として男性作家たちは、自然主義的リアリズムによって、わたしたちの「真実」を、すなわち人間の「内面」の「奥底」を描き出せると考えました》p.73

」をめぐっては、たとえば以下のように述べられている。

近代文学は、その、どの時期においても、世界と戦う「私」を中心に置いてきました。ことばは、そのための武器であることも代わりはありませんでした》p.153

わたしたちは、小説というものは、概ね、どんなものであっても (略) 作者である「私」が作品の中に存在していて、その存在を感知することが、その小説を読むことだ、と思ってきました。 (略) その「私」を読むこと、その「私」がなにを考えているのかを知ること、これが近代文学を読むということだったのです》p.154

 (2)

岡田利規石川啄木は次のように比較されている。

まず、岡田の小説「わたしたちの場所の複数」は、《自然主義的リアリズムに基づいているかのように見えながら、同時に(略)この百年の自然主義的リアリズムにはなかったなにか不思議なものが感じられる》と言う。具体的には以下。

この小説から与えられる最大の印象は(略)一つの「戦争」が終わった後のできごと、「敗戦後」に起こったことではないかということです。作者が「人生」ということばを使わないのは、なぜなのかはわからないが、その「戦争」の後では「人生」ということばを使うことができなくなったからです。この百年、文学が武器として、道具として、玩具として使ってきた多くのことばを、作者は「敗戦」によって使用が不可能になったと感じて、使用を自らに禁じたのではないでしょうか》p.120 なお、ここでいう敗戦とは1945年ではなく80年代末から90年代以降に起こった時代変化をめぐっているとおもわれる。

なぜそうなのか。

それは、この作者が、この百年の間に流通してきた、さまざまな問いと答え、あたかも本質的であるかの如く見える、問いと答えのペア、諍いや闘争、そういったものに対して、深い生理的嫌悪感を持っているからではないでしょうか。この小説は、あくまでも禁欲的に、ほとんど身動きしない主人公が、ただ体を伸ばしたり縮めたりしながら、時にパソコンの画面を見る、ただそれだけの描写で成り立っています。
 しかし、なにより重要なのは、主人公が極端に内向的であり、自閉的であり、自分の内側しか見ないではないか、などといった批判を、この小説に向けることができないということです。なぜなら、この主人公は、そもそも、自分の内面を見つめるという習慣をもたないからです》p.122-123

この「私」の不成立によって立ち上がるのが、本当の「他者」ということにもなる。

近代文学は、「『私』の獲得」というモードに達した時、ある意味で「私」を自明の前提としました。そして、描写すべき他者とは、もう一人の「私」に過ぎないと思ったのです。自然主義的リアリズム、あるいはその素朴な応用としての私小説の中に、本質的な他者は存在しません。ただ、「私に似た他人」がいるだけで、それ故に「私」とその「私に似た他人」は――理解できるはずなのに、と考えながら――いら立ちあい、ことばをぶつけあうのです》p.123

したがって、その近代文学のことばが達するのは本当の他者ではない。そこで――

この作品の主人公「わたし」は、一緒に住む夫、けんかをする夫、ことばを投げかける夫、そして遠くに逃げ込む夫、それぞれについての微細な描写を続けます。その果てに、夫の人間像が浮かび上がってくるでしょうか。わかりません。しかし、少なくともそこには、困難だが本質的なコミュニケーションを取り結びたいという、切実な思いがあり、そのためには、わたしたちが百年にわたって使ってきた、闘争の武器としてのことば、モノとしてのことば、玩具としてのことば、そんなことばではなく、もっと貧しくもっと拙い、だがそれゆえ、より直接的なことばを使うことによって、他者に近づこうという意志が見られるような気がするのです》p.123-124

前田司郎『グレート生活アドベンチャー』からは、近代文学への以下のような疑念を読み取る。

この小説の主人公は、啄木と同じような不安の前に立ちつくしている。そして《啄木は、優れた近代人のひとりとして、その問いに答えようとしました。あるいは、彼の目の前にそびえ立つ、闇のようなものに、ことばという武器をもって立ち向かおうとしたのです》p.142 しかし、もちろん前田小説の主人公はそのような態度をとらない。なぜか。

まず、啄木を初めとする近代文学が投げかけてきた「人生をどうする?」「生きるべきか死ぬべきか」「人生は苦痛だ」といった問いには、実はもともと答えなどはないのであり、それがわかっていて発せられたこの問いは八百長なのではないか。高橋はまずそう言う。それにもかかわらず、近代文学100年の読者たちは、この大文字の問いをずっと長く問い続けてきた。あげくどうなったか。

そして、おそらく、ある日、彼は突然飽きたのです。あるいは、そこに、許すことのできない虚偽があると感じたのかもしれません》p.143

その虚偽を直視することに関連づけて、『グレート生活アドベンチャー』のラストが、引用される。

常に僕の根底にあっていつも見て見ない振りを続けていた闇の塊のような感覚、感覚と言うのでは違うな、なんだろう、傷口でもなく、見てはいけないもの、決して振り返ってはいけないと言われていたのに振り返ってしまって、それを直視してしまった。こんなときに。
 息が乱れた、鍋が吹きこぼれる

見てはいけないものとは何だろう。

それは、ことばで直視してはならないもの、近代文学の大ざっぱなことばでも、それを否定した現代文学の「モノとしてのことば」でも、あるいは、その先に生まれた「玩具としてのことば」でも届かないなにかです。
 しかしまた同時に、それがなにかを知るためには、それを「見る」ためには、ことばが必要であることを、「僕」は知っているのです》p.146

 (3)

小説の「OS」という言い方は、同書の後半で出てくる。日本近代文学は、1880年代に成立したOSを、1990年代半ばあたりで交換したのではないか、と具体的に。その視点から同書の主張が改めて詳細に検証される。

1990年代半ばごろまでに現れた日本の作家については、高橋源一郎自身を含めて、次のように規定する。

彼らは近代文学的な「私」を疑ってはいたものの、《しかし、ことばによって小説が書かれていること、表現によって世界と戦うこと、この世界と戦うこと、この世界と拮抗するために、ことばという武器――もしくは玩具――を使うこと、闘争すること、それらについては、疑っていないような気がするのです

しかしもっと若い作家たちはそうではないという。たとえば平野啓一郎は「私」の匂いが極度に希薄だと。さらに。

いや、もっと大切なのは、新しい「私」は、なにより、そんな自分の状態に目を凝らし、耳を澄ましているのです》p.153

彼らは、というか、「私」は、なにかと戦おうとするより先に、まず自分がどんな世界に生きているのかを知りたいと思っています。あるいは「私」というものがあになのかを触知したいと願っているのです。そして、「私」というものが、あまりに、儚く、とらえがたいものであるが故に、それは、世界と戦って守るべきものでも、一回きりのかけがえのないものでもかく、交換可能で、どんなキャラクターにでも変身出来るものだとさえ思うことがあるのです》p.154

さらに話は壮大になる。ではこのOSが誕生する明治以前、私たちはいったい何を基盤にして言葉を使っていたのか。すなわち《時代によって変化するOSをさらにその底で動かしているもの、いわば超歴史的な、人間を駆動するさらに根本的なOSのようなもの》とは?

高橋は、中沢新一の『芸術人類学』を参照、解釈しつつ、次のように答えを探っていく。

国家が生まれてからわれわれは共同体と合理的な関係を結ぶようになった。《その時、なにが起こったか。人間というものが、世界に存在して以来、ずっと持ちつづけてきた、人間の自由を象徴する「流動的知性」の抑圧が始まったのです》p.157 それは、あまりにも長く抑圧され、あまりにも自然で、決定的であったがゆえに、それに規制されていても気づかなかった超OSだ。そして今私たちが気づいて更新しようとしているのは、近代文学100年のOSだけではなく、数千年や1万年にもわかって使われてきたOSなのではないか。

ではその超OS更新の兆しを、どこに見つけているのかというと、なんとケータイ小説の『恋空』だ。どういうことか。

「流動的知性」とは自他の区別がなくなるということだが、この「自他の区別」の消滅への願望が、『恋空』などのケータイ小説には特徴的なのだと言う。なぜなら、ケータイ小説には作者が存在しない、というか、作者が読者と同じレベルに降りてきている。すると読者は何もすることがなく、たてつづけに事件が起きてしまい、なにか考える前に気づくと小説は終わっている。ゲームのようなものだ。…といった論考がなされている。

『恋空』のあとで、ふいに夏目漱石道草』の冒頭が引っ張り出される。こうした文章は今では書くことが不可能なのではないかというのだ。つまり、道草の主人公は「ある独特の複雑な気分」を持っているが、読者がそれに即応して「そうだ」と感じることがなくなれば、この小説はもはや存在できないのだと。

続いて、田山花袋の『蒲団』が出てくる。ちょいとややこしいが、『道草』は『恋空』と中身もOSも違っている一方、『蒲団』は『恋空』とOSは違うが中身は似たようなものだと、高橋はみる。

そして重要なことは、『恋空』も『蒲団』も、立ち上がったばかりの各OSを、それぞれにまだうまく使いこなせていない感じがすることであり、ゆえに、ひとつの熱狂がそれぞれから感じとれる、としている。

これらの作品の作者たちは、なにかの「始まり」に遭遇しています。そして、そのことに彼らは気づいていないのです》p.168

 (4)

中原昌也の小説は、志賀直哉太宰治耕治人らの小説とどう違うのか。

結論をまとめるなら、「なんらかの歴史というものを踏まえて生きたり考えたりしているか、そうでないか」ということになる。

その比較をするために、高橋源一郎は「そもそもなぜ文学史が可能なのか」と問う。答えはサイードの著作から示唆される。歴史の起源は任意である。あれが始まりだったと認識したとき、ようやく歴史が始まり、同じく、共同体の成員がこれで終わったと認識したとき、その歴史は終わるのだ、と。

その前提には、私たちのある習性が横たわっていることが示される。すなわち、私たちは人間や社会というものを「なんらかの起源を持ち、なんらかの成長を遂げ、なんらかの終焉を迎える」という枠組みのなかで眺めようとする、ということ。

おそらく、その社会全体が「始まり」の意識の中にあるときは、「始まり」にふさわしい物語が求められるのです。そして、社会全体が、成長し、強大になり、壮年の状態になったときにもまた、それにふさわしい物語が求められるはずです。けれど、社会は、いつまでも、成長しつづけることはできません。気がつくと、社会は、緩やかに下降を始めています。そして、そのとき、その社会の成因である我々は、「下降」の物語を、無意識の中に、求めはじめるのです。
 だとするなら、もし、わたしたちが現在読んでいる小説の多くが、なにものかの終わりを案じしたり、年老いた人々との諦念や諦観を描くことに熱中していいるとしたら、それは、わたしたちが、一つの歴史の終わりに立ち会っていることの証なのかもしれません》p.178。

こうして、歴史が立ち上がる条件といったものを自覚してみれば、志賀と太宰は正反対の作家のようでありながら、『暗夜行路』と『津軽』はひとつの同じ空間に属していると言う。《そこには「始まり」があり、「成長」があります》。耕治人『そうかもしれない』にも、同じ「始まり」と「成長」を共有してきた上での「晩年」が描かれているとみる。

ところが、中原昌也の小説「凶暴な放浪者」は明らかに異彩を放っている。

では、この小説と、わたしたちがいままで読んできた、志賀直哉太宰治耕治人の小説とは、どこが違うのでしょう。
 わたしの考えでは、この小説には、現在しか存在しないのです》p.197

現在しか存在しない。日本という共同体がこれまで共有してきた歴史の影をまったく認めることができない。

ただし、中原小説にも「ほんとうのこと」への希求は過剰なほどある。しかしそのために、主人公は、レストランの厨房から料理人の思考をモニターするようなことを夢想する。それはなぜか。

おそらく、それは、作者が、それまでの共同体の中で、「真実」と思われたもの、たとえば、「内面の真実」というものを疑っているからです。それは、真実などではなく、「真実というものに加工されている」だけなのではないか。そのことを知るためには、「告白」や「描写」や「会話」ではなく。人々の脳を直接モニターするしかないのです。だが、それは、もはや、「文学」とはいえないものではないでしょうか。
 わたしたちは、「ほんとうの自分自身」には耐えられないのかもしれません。だからこそ、ほんとうは、不定型で、かたちを持たない、きわめてあいまいなまま、人間の内部を流動するなにかについて、いくつかのパターンを作り、それを、近似的な「ほんとうの自分自身」として提示する。それが、この共同体における、小説の役割だったのです》p.197-198

だから志賀や太宰らはそうした。しかし中原の文章は違うのだ。

ここには、なにか微妙なものがあります。なにか、ひどく変わったものが。
 もしかしたら、この文章は、「日本」ではなく、この「日本」という、わたしたちがよく知っている都思いこんでいる共同体の中に、同時に存在しているもう一つの別の共同体に属しているのかもしれません

それがどんな共同体であるにせよ、これまで、わたしたちが読んできた、教えられてきた、この百年の「共同体」とは、異なった世界のそれではないでしょうか

そこには、なにより、歴史が存在しません。(略)
 彼らは、現在を生きています。というか、「現在」の表面を凝視することで、辛うじて生きつづけているのです。(略) わかっていることが、ただひとつだけあります。それは、世界の向こう側はわからない、ということです。あるいは、他者はわからない、ということです。
 わたしの考えでは、志賀直哉太宰治耕治人の小説に、他者は出てきません。なぜなら、どんな人間も、「この共同体」に所属していることだけは確かであり、同じ歴史を、同じ「始まり」を生きてきたのです》p.200

しかし中原の根底にあるのは、《自分が、自分も使っているそのことばを生み出した共同体に所属していないという感覚。それは、この世界の歴史に自分は参加していない、という感覚につながっています。あるいは歴史というものがなになのかを、そもそも知らないという感覚に

そして、中原小説が孕んでいる可能性のある、この新しい歴史は、まだ始まりと意識されてはいないと高橋は考える。その言葉を担う者たちが、事後的に、わたしたちはそうやってはじめたのだ、といつか気づくまで。

だとするなら、そのことばは、一つの共同体が終わりを告げ、しかし、次の共同体がまだ完全には姿を現さない、「次の千年」へと向かう、すき間の時期に取らざるを得ない、必然的なかたちなのかもしれません》p.201

断片的な引用だとわかりにくいかもしれない。私なりにまとめると―― 中原昌也の小説は日本近代文学100年の歴史をまったく踏まえていない。つまり、言葉の新しいOSが誕生しつつあるのかもしれない。しかしそれは、近代文学史が事後的に見出されたように、やはり事後的に見出されるのを待つしかない。さらにいっそう重要なことは、今立ち上がりつつある言葉のOSは、100年単位の更新ではなく、個人がその生や言葉を自分の属する共同体と一体のものとして営むようになって以来、とてつもなく長く機能してきたミレニアム単位の超OSを、いよいよ更新することになる可能性がある。

 (5)

このほか、綿矢りさも繰り返し取り上げられている。『インストール』を以下のように評する。

面白いのはこの作品の「私」が、観念とか感想とかことばというものを、それほどまでには信用していないということです》p.42 デビュー間もない作家なら《わたしの考えでは、多くの場合、彼らは、自身について書いたり語ったりすることから物語を始めるものです》《ところが、『インストール』には、そのような、「語られるべき痛切な事実」は存在しないのです》。

逆に何が書き込まれているのかというと、音や五感だという。

自然主義的リアリズムはそれを捨ててスタートしたのだが、《けれど、彼らが失ったもの、忘れていったものを、文学史はいま、もしかしたら百年たって思い出しつつあるのかもしれません》p.53

綿矢りさ『夢を与える』では別のことが指摘される。『夢を与える』の登場人物の性格や行動がそろって紋切り型であることをめぐり、次のように述べる。

すべてが紋切り型であるような世界では、たとえば「自分を探す」という近代文学の最大のモチーフでさえ、紋切り型以下のひどくこっけいな、愚行にしか見えないということを、作者は主張しているようにわたしには思えるのです》p.72

これらは自然主義的リアリズムとは対照的であり、きわめて単純な、あるものごと、ある世界を、実相のまま描き出そうとする「リアリズム」だと、結論している。