動物の鳴き声はいくつかの理由で私たちの言語とは違うものとされる。だからこれは無意味な問いかもしれないが、彼らに疑問や否定はないのだろうか? いやじつはすべて命令だったりするのか?
「おまえら、どうなんだよ」
「ワン」
「ニャー」
「G〜」(岩にしみいる蝉の声)
「…ちゃぽん」(蛙とびこむ水の音)
たとえば英文法では、文はその内容から「平叙文・疑問文・命令文・感嘆文」に分類されるという。それとは別に「肯定文・否定文」の区別もある。(『ロイヤル英文法』2000年)
しかし私たちも大昔はどうだったのだろう。言語をまったく使わない段階があったはずだが、まずは平叙文や肯定文を口にするようになり、だいぶ後になって疑問文や否定文がやっと出てきたのだろうか?
実際、そんな分類ができるほど明確でも複雑でもないものから言葉は始まったのだろうとは思う。
……でもきのうふと思ったのは、「私たちの初めての言葉が疑問の形をしていた」可能性だ。しかも、その答えに当たるものとして「肯定および否定の形も同時に誕生した」なんてことはないのか、ということだ。
世界の例(空想)
疑問文・肯定文・否定文
「これ食えるか」「これ食える」「これ食えない」
「ダイジョウブ?」「Yes, ダイジョウブ」「No, ダイジョウブ」
「ペンライ?」「マイペンライ!」
「ケンチャナヨ?」「ケンチャナヨ!」
「有没有?」「没有 !」「没有?」「没有 !!」「有?」「没有 !!!」
肝心なこと――。言語がなかった段階の私たちの心にも、疑問や否定に当たるはたらきはすでにあったのか。それとも、言語という記号や表象なしには疑問も否定も生じなかったのか。もしそうなら、疑問や否定の形があることこそ言語の本質と考えてよいのではないか。あるいは、言語がなくても疑問や否定の形式は必ずあるというべきなのだろうか。人間や宇宙が存在しなくても疑問や否定は存在するのだと。ではそのばあい、疑問や否定はいったいどこにあるのか。
そこまで突きつめる前に、どんな表現にも否定や疑問の形式があるのかと考えるのもいい。たとえば映画で「〜ではない」ということを台詞やナレーションなしに示そうとしたら、どんな手法を用いるのだろう。
しかし、「否定は言葉にはできるが絵に描くことはできない」と誰かが言っていたとも記憶する(ウィトゲンシュタインをめぐる何かの本)。「ライオンがいる部屋」「ライオンがいない部屋」。言葉ならどちらも簡単に言える。しかし絵では「ライオンがいる部屋」は描けても「ライオンがいない部屋」は描くことが難しいというのだ。(いやいや、映画のシナリオに「ライオンがいる部屋」なんてあったら、そっちのほうがよっぽど撮影に困るよ、という実情はあるにせよ) それだけでなく、「無限に続くヒツジの行列」や「ゾウより大きくアリより小さい動物」も、言葉では言えるが、映画や絵にはできない。「世界の中心で愛を叫んだけもの」とかも正確な絵にはならないだろう。
あるいはもっと根本的に、「行く?」「食べる?」や「行かない」「食べない」だって本当に絵にできるのかどうか。「禁煙」とか「芝生に入らないこと」を意味する絵はあると思うが、よくよくみれば、言語特有の否定というはたらきを記号(たとえば「×」など)に置き換えただけ、ということではないのか。
いや待てよ、そもそも、「a cat」は1枚の絵にできるけど、「cats」は1枚の絵にはできないんじゃないか!? …う〜む、あらゆる言語表現が、絵や写真とはまったく異なる何かであるような気が、またしてきた。
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わたしの存在そのものが質問なのだ これも寺山修司らしいが出典不明
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◎参考(2010.5.24 追記)
http://sofusha.moe-nifty.com/series_02/2010/05/5-455b.html
「ある」ことと「ない」ことが同じくらい問題になるのは、それが言語として表現された場合のみです(斎藤環)