物理学は数式を変形してやっと何ごとかがわかる。これは哲学が文章を変形してやっと何ごとかがわかるのと同じだ。そんなことに気がついた。だから物理学が難しくても我慢すべきだ。哲学が難しいのも道理なのだ。難しいのは不得手だし好きですらない。しかし何ごとかがわかるのは素晴らしい。
では文学は? もしや文学とは物語の変形なのか。それが正体か。たとえば『百年の孤独』も物語の変形に次ぐ変形それ自体であることは間違いなさそうだ。しかしそれで何ごとかがわかるのか? いやまったく心もとないとも言える。
磯崎憲一郎は、こんなことを言っているではないか!ーー《納得感を与えようとする姑息さが微塵も感じられない》
https://www.bookbang.jp/review/article/782492
そしてもちろん、磯崎憲一郎がデビュー作のときからガルシア=マルケスに似ていた(そう評されてきたと思う)ことは、ずっと忘れていない。
『百年の孤独』の再読は、ちょうど半分を過ぎたあたり。
《その瞬間、すさまじい反響をともなった笛のような音と、異様なあえぎが町全体をゆさぶった》ーーなかんずくのこの興奮、汽車の出現=到着だ! 磯崎憲一郎に『電車道』という小説があったことを思い出した。
(8月18日)
多数の個人史が集まって集団の歴史になるーー普通そう考える。しかし一方で、ある個人の人生には、たいていの集団がたどる典型的な歴史がいくつも、ことによってはすべて盛り込まれる。そう捉えることもできる。そんなふうに、特定の人物の長い歴史が綴られているようにも見える。
人生は短いようで長く、たいていのことが盛り込まれているなあと思いつつ死んでいくのだろう、と思ったということ。
私のそれなりに長い個人史も、取るに足らないようで、パンデミック、大地震、原発事故、バブル経済とその崩壊、生活のグローバル化、インターネットによる何度目かの産業革命=文明革命がすでに詰め込まれた。…戦争だけがない!(いやそれが不満なら生きているうちに願いはかなうかもしれない)
(8月28日)
久しぶりに従兄弟などと会うと、上に二世代、下にも二世代と話が広がり、ずいぶん多くの親族・姻族が、皆ずいぶん長く生きてきたのだということを、実感せざるをえない。一人ひとり生涯をしっかり記述していったら、けっこう『百年の孤独』みたいになるかもしれない。
(9月10日)
昼寝をしていたら母親が死んだ夢をみた。この世を去って何十年もたっているのに、なぜ今ごろと思った。起き上がると布団の上に『百年の孤独』の文庫本があった。もう終わりかけで、ウルスラがとうとう命を落とす場面を読んでいたのだった。
<以下はある読書会の報告として>
『百年の孤独』の冒頭、錬金術の話が出てきます。しかし妻が大切にしていた金貨は鍋で溶かされ煮立てられたあげく炭になってしまいます。この錬金術のイメージはこの小説全体につきまといます。それで思ったことですがーー 私たちはなぜ小説というものをこんなに飽きずに読んだり書いたりするのでしょう。それはもしかして、物語や言葉を溶かしたり煮立てたりを繰り返してさえいれば、いつか必ず真実や真理という黄金が出現するはずだ、手にできるはずだと信じているからではないでしょうか。そう信じて読書という錬金術を繰り返しているのではないでしょうか。