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【2019 輪廻転生】

磯崎憲一郎「肝心の子供」(文藝賞)


この小説はいったい何なのか。その根本のところが、読んだ人たちの間でやけに取り沙汰されているようにみえる。でも私は、この小説は「悟り」の話なのだと素朴に思った。

ブッダとその子と孫 三代をつづった短い物語。そこから「悟り」だなんて、いくらなんでもひねりがなさすぎるか。でも、繰り返し示される印象的なエピソードは、いずれもそうした境地の描写なのだと捉えると、すんなり焦点を結んでくる気がするのだから、しかたない。

世界が存することや自分が生きてあることの全体が、ああそうかこういう配置や構図になっているのかと、全身で完全に納得できるような境地。その結果、そのことの根拠や意味がむしろ拡散し消失し、もはや問う必要もなくなってしまうような境地。悟りとはおおよそそういうことを言うのだとして。

ブッダは若くして結婚し子供を一人もうける。そしてしみじみこう考えた。

ブッダが一生を費やしても、これ以上の何かを作り出せるはずはなく、彼の人生で成すべき唯一最大の仕事はすでに終わっていることを悟った。まだ彼は幽霊ではなかったが、生の義務感から解放され、限りなく身軽な自分を感じていた。後ろめたいまでの幸福感が広がっていた。》

そして一年後ブッダは家を出る(出家するというか)。しかしここはそれほど感動的でもなかった。

それより、そのブッダの子であるラーフラが驚異的な子供なのだ。ラーフラは周囲にあるすべての個物をあまりにも細微にそして必ず差異を伴って認知してしまう。つまり、目の前に現れるカエルの一匹一匹まで、それぞれはっきり別個のカエルとして把握する。我々はふつうカエルなんて多少違っていてもどれも同じ「カエル」として捉えるだろう。ラーフラはそうならない。しかもラーフラは、そうしたあらゆる個物に命が宿っているとも感じ、そのせいで、食べ残しの食物でも動物の死骸でも古くなった衣類でも捨てることができない。

そうした差異を越えた同一性(たとえば「それはみなカエルである」といった同一性)や、細微を捨てた抽象性(たとえば「それはようするにゴミである」といった抽象性)に、たどり着けないのだとしたら、そもそも言語による思考というものは成り立たないのではないか、なんてことも考えさせられる。さらに言ってみれば、悟りの邪魔をするのが言葉なのだとしたら、こういうことが関係あるのかもしれない。

そのラーフラが家を出るのは、こんな風にしてだ。

雄大なローヒニー河は何千年も前からこの国に流れているというのに、朝日にきらきらと反射する無数の小波を自分が見るのは、もしかしたら今日が最後なのかもしれない、けれどもこの河は自分などとは何ら関係なく、満々と水を湛たえながらこれからも変わらず流れ続けるのだ、そう思ったら、すぐにでもこの場にひれ伏して、大声をあげて泣かねばならないような気がした。》

これもまたありがちな出来事のようではある。しかし、悟りというのはそもそも案外ありがちな出来事なのであり、そうでなければ誰も悟りなんか開けないではないか、と思ったほうがむしろいいのかもしれない。

そして、ラーフラの子であるティッサ・メッテイヤ。

ティッサ・メッテイヤはホームレス的な境遇で母親だけに育てられ、森の自然のなかだけで大きくなる。友達は虫だった。

《カブト虫の角にしても、クワガタのあごにしてもこれほど優雅な、筆で書き流したような曲線を描いているのに、触れればどうして石のように硬いのか、なんらかの拍子に誤って指を挟まれてしまうと、その痛さに叫ばずにはいられない。手のひらにも載るような小さい虫のいったいどのあたりにこれほどまでの強い力が、筋肉が隠されているのか。指先の一点から滲み出した血の豆粒に息を吹きかけながら、ティッサ・メッテイアは自分の育てている虫たちに惚れ惚れとしていた。》

そして、その虫にわいたダニを取ってやろうとして、煙で燻っても死んでしまい、水で洗っても死んでしまう。それでも試行錯誤の末、ティッサ・メッテイアはカブト虫とクワガタ合計1000匹以上の繁殖にも成功する。

このあたりを読んで私は、今年のベストセラー『生物と無生物のあいだ』(福岡伸一)を自ずと思い出した。特に巻末。著者が少年期の夏休みに虫の命の不思議をかいまみた体験談などを。だから、「悟り」というのが唐突に感じられる場合、「肝心の子供」そして「悟り」そして『生物と無生物のあいだ』と3者を重ね合わせてみると、何か浮き上がってくるかもしれない。

さて、そのラーフラは山中で恐ろしい虎に出逢ってしまい樹に登って逃げるが、なお命は危うい。そうしてラーフラは、あのカブト虫とクワガタたちが自分を助けに来てくれる夢を描いたあげく、樹のてっぺんに顔を出す。そこにこの物語のクライマックスは訪れる。

《すると、突然、光に包まれた。まぶしさに少しのあいだ目を瞑ったが、ふたたび目を開けると、森の頂上には別世界が広がっていた。見渡す限りの黄緑色の新芽のあいだに点々と薄桃色の花が咲き、見たこともない黄色い小鳥とクロアゲハ、アオスジアゲハ、ハナムグリたちが先を争って蜜を吸っていた。どぎつい真っ赤な果実を手に持った小猿がティッサ・メッテイアに気づいて、驚いた様子でこちらを見ていた。大陽はまだ低い位置にあり、ここに生きる生物たちのために惜しむことなく光と熱を与え続けていた。鳥たちの囀りと涼風の吹くかすかな音だけが聞こえていた。どこまでも続く若い緑の大海原の遥か先、地平線にはこの地球上でもっとも高い山々が黒々とそびえているのが見えた。人類が始まってからというもの、この林冠の世界に足を踏み入れた者はひとりとしておらず、ブッダの孫こそが、その最初の人間となった。このときブッダは五十歳、ラーフラはまだ二十四歳だった。》

文藝賞選考委員の保坂和志は、「ブッダの孫にあたるとされる男が猿になってしまった話といってもいい」と選評に書いている。なるほど。そうすると、悟りとは猿だったころの認知形式に還っていくことだと、これまた陳腐ではあるが、やっぱりそういうことなのかもしれないと思う。(ただし、保坂は上記に続いて「私はそう読んだのだが、しかし解釈はどうでもいい」とも書いている)


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さて、その選評だが、小説に劣らず強く気を引くことが書いてある。保坂は以下のように言う。

《この小説の、現代小説に対する顧慮のなさ、現代日本文学と類縁関係を持たない文体、ブッダとその弟子たちという実在の人物の登場、等々が選考会では議論になったわけだが、》

《一文一文が未知で不確定な世界に分け入ってゆくこの作品の文章の強度は、まさに小説というフィクションでしか実現しえないものだ。30年以上にわたる歳月が強靭な消化力で飲み込まれるといえばいいか、非常な何物かの力によって押し流されるといえばいいか。》

同じく選考委員の高橋源一郎はこう述べている。

《ぼくはこの仏陀、そしてその息子と孫の出てくる偽史小説を二度、いずれも夢中になって読んだ。だが、それにも拘らず(?)、核心と思える部分を指し示すことができなかった。つまり、それは「基幹部」を発見できなかったということだ。そんなことってあるのか? ある。完全犯罪の如き、いかなるとっかかりも与えてくれぬこの作品は、いつの世にも。そういうわけで、この作品の秘密がわかった人は、後で教えてください。》

さてさて。この選評にしても、この小説を論じようという者はこの小説がどう面白かったかの感想を書くなんてのは野暮である、といった強迫観念が感じられなくもない。のだが、私はここで素直にどう面白かったを書いた。のだが、やっぱりそれでも、ではこのように面白い小説を作者は如何なる方法によって作り上げることができたのかを分析することにも、大きな意義があるとは思っている。

なぜなら、こういう小説は実は今どき極めて珍しい、言い換えれば、どのような創作方法に立てばこのような小説世界が出来上がるのか、たとえば高橋源一郎にしても見当がつかないでいる、というふうに受け取れるからだ。

偽日記もこの「肝心の子供」を絶賛している。絶賛しているだけでなく、その方法についても少し分析している。http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/nisenikki.html(07/10/23、07/10/24 ほか)

だがそれ以上に、保坂と高橋の選評と同じく、この小説がどれほど希有なのかという驚嘆自体が、やっぱり強く伝わってくる。

文藝賞になった「肝心の子供」(磯崎憲一郎)という小説が凄い。とにかく凄く面白い。今、日本で書かれているあらゆる小説とほとんど無関係にぶっとんでいるという意味で、圧倒的に飛び抜けている。今、これを読まない手はないと思う。というか、ことさら「今」読まなければその魅力が目減りしてしまうような小説ではなく、おそらく五年後に読んでも、二十年後に読んでも、びくともせずに面白いと思われるので、そうそうあせって読む必要もないのかもしれないけど。》


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保坂和志と偽日記のリードに導かれて読んだ新人作家となると、どうしても青木淳悟が思い出される。そのせいもあってか、「肝心の子供」に似た小説を探してみると、私はまず青木淳悟の「クレーターのほとりで」が浮かんできた。それと、保坂はボルヘスの名をあげていたけれど、私はやっぱりガルシア=マルケス百年の孤独』が思い出されてならない。『百年の孤独』はインパクトがあまりに大きいため、なにか凄い小説を読めばやたらに『百年の孤独』は引っかかってくる、ということに過ぎないのかもしれないが。


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さて、ここまでのまとめみたいな気分で、「肝心の子供」から最後にもう一節引用しておきたい。ブッダの国の隣国の王様ビンビサーラをめぐる思索。

《こう仮定することはできないだろうか。ビンビサーラは物心ついたときから以降もうまもなく臨終を迎えるいまに至るまで、途轍もなく長い、ひとつながりの文章をしゃべり続けている。途中には話題の転換や逸脱、休憩が入ることはもちろんあるにしても、彼がいま語っている事柄は常に、なんらかの形でそれ以前の話を踏まえたものにならざるを得ないのだから、それは長い長い一本の文章を語っているのと同じことではないか。だが、そこでラーフラは思い直した。これは人生の時間が途切れなく続いていることのたんなる言い換えに過ぎない。彼はふたたび人間の人生が過去でできていることに思い当たった。どんな時間でも過ぎてしまえば、人間は過去の一部分を生きていたことになるのだけれど、ここで不思議なことは、今このときだっていずれ思い返すであろう過去のうちのひとつに過ぎないということなのだ。だから、という繋がり方はラーフラにもうまく説明はできないのだろうが、ビンビサーラもまた生き続ける、彼が話し続ける限り死ぬこともない。》

やっぱり、まとめとするには無理があるか。それでも、語ることや小説を書くことと、悟ることとの共通性みたいなところに、いくらか触れていけそうな気はする。


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磯崎憲一郎『肝心の子供』 asin:4309018351
 なお私は同作品を『文藝2007年冬号』で読んだ。上記引用も同様。

青木淳悟について参考までに http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20050327#p1


◎まあついでなので
 福岡伸一生物と無生物のあいだasin:4061498916
 G. ガルシア=マルケス百年の孤独asin:4105090089



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(追記12.28)
参照→http://bungeishi.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_8c43.html
「肝心の子供」は20世紀の文学手法のデパートであるとの主旨