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【2019 輪廻転生】

夏の宿題がまだ片付かないのに、もう12月だ

https://tokyocat.hatenadiary.jp/entry/2021/09/27/000000 からの続き

   

実はあれからジム・ホルト『世界はなぜ「ある」のか』を改めて読んだ。宿題の本題である「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」を考えるのに最良の副読本。文庫が出ていたので線を引っ張りながら通読し、今度はとうとうぜんぶ理解できたと思った。

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文庫本の解説は中島義道で、おお!と思ったのだが、その解説で初めて気がついたのは、同書で著者が対話する相手が哲学者と科学者の2つにほぼ分かれること。そして哲学者たる著者は「世界はなぜあるのか」という茫洋かつ巨大なる問いに対し、哲学的にはきっちり答えを出していたことを確認(今さらだが)

その「世界はなぜあるのか」に決着をつけた哲学の理屈は、かなり興味深い。しかし著者のもともとの問いは、もっと実存的とでも言える問いだったのではと思う。つまり「なんで生きているんだろう」「なんで死ぬんだろう」「なんだろうこれって」といった、私もほぼ同じような言葉になる気がかり。

ただ、その実存的とも言えるほうの問いは、著者は同書のなかで論理とは別の形でかみしめているようでもある。いわば物語の形で。基本的に哲学の本なのだろうが、対話相手の人物そのものの描写や、人物と自分が過ごす情景の描写が、やけに多い。しかもこの本の最後には自身の母親の死が語られる。

つまり小説混じりの哲学書だろう。

いや考えてみれば、小説に哲学はわりと混ざる。失恋とは何かを考えつつ失恋の物語がつづられる。失業とは何かを考えつつ失業の物語がつづられる、等々。だから「小説混じりのこの哲学書」を「哲学が大いに混ざった小説」だと捉えてもいいのかと思い直す。

それに関連。

著者は「世界はなぜあるのだと思いますか?」と複数の哲学者や科学者に問いかけるが、小説家はただ1人だけ。しかも彼(アップダイク)の登場は、同書が哲学的証明を済ませた直後で、しかも彼との対話だけはそこまでの長い展開とは特に絡まない。

アップダイクとの対話は私にはとても印象に残ったが、さて著者は小説を哲学のデザートのように扱っているのだろうか? そうではなく、実は本当に向き合いたい「問いの余り部分」を、解明する形ではなく物語る形で、静かになぞっているのだろうか? ともあれ、最後の母との別離もやはり物語る形の章だった。

 

なお「世界はなぜあるのか」について科学的にはビッグバンや量子力学が核心に迫る糸口を示してきたと言え、同書でもそれはよくわかる。そしてこの問いをめぐっては科学の問答は、哲学の問答以上に難解かもしれないが、哲学の問答以上に豊穣でもあるように、私には思えた。

私自身は昔から、夜電気を消して布団に寝転がるようなときに、「あれ、こういういろいろなものが、あるのって、当たり前みたいだけど、まったくなにもなかったとしても、べつにおかしくなかったんじゃないか。そしたら、そもそも、なぜこういうふうに、今あるのだろう」と思ってきた。

この不思議は、私にとっては、「死んだら終わりだなんて、まったくどうしてくれるんだ」「神はいないみたいだけど、ほんとにそれでいいのか、宇宙よ」といった嘆きに近い。だから私の「世界はなぜあるのか?」は哲学の問い・科学の問いというより、いわば神学の問いだろうと思ったこともある。

しかしやっぱり本当は、もっと完全に素朴に、このように「ある」のはなぜだろう、このように「ないのではないのは」なぜだろう、という事実に関する疑問こそが私にとっては核心なんだろうとも、思っている。

 

ただし、「ないのではない」と無条件に言っているが、「まったくなにもない」ということが、どういうことなのか、だいたい「まったくなにもない」ということが、そもそもありえるのか、という問いが、この数年に及ぶ夏の宿題のなかで、かなり重要になってきていることも、確認しておきたい。

 

◎ジム・ホルト(TED)

 

猫が見る窓の外  へ続く