図書館で目にした映画のシナリオ集に『ソナチネ』(北野武・監督脚本)が載っていたので借りて読んだ。
映画を何度か見ているからだろうが、脚本を読むだけで各シーンがありありと浮かび上がる。
まさに脚本は映画の表象だな〜。その当たり前のことが新鮮に感じられたのは、しかし映画のほうは何かの表象ではなく映画そのものであるべきだという、重要なことを賢明にも思い出したからだ。言い換えれば、あらゆるシーンが別の何かを説明(表象)するだけのためにあるような実につまらない映画もあるということ。
そして、もう一つ考えた。脚本の文章は映画の表象だが、では小説の文章も何かの表象なのか。そうではないだろう。小説の文章は、映画が映画そのものであるように、小説の文章そのものであるべきだ。
さて、『ソナチネ』は、やくざの組長である村川(北野武)が、親の組の陰謀によって、沖縄の別の組の抗争に巻き込まれてしまう話。村川は行きたくもない沖縄に子分を大勢連れて応援に出向くが、沖縄で待っていた組のほうでは、わざわざ来てくれなくてもよかったのにそちらの親分がどうしてもというから仕方なく応援に来てもらったのだと、内情を明かす。なんだそりゃ。しかし、すごすごと帰るわけにはいかない。「面子が立たない」「引込みがつかない」といった闘いの美学がときに人命よりずっと重いというのがやくざなのだろう。……と思ったところで、ふとロシアのプーチンの顔が浮かんだ。
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プーチンの顔が浮かんだついでに、さらにヘンなことを述べる。
表象という用語は文学系の学問の一定領域でよく使われてきたと思う。その大元が「表象文化論」だろうか。
「脚本は映画の表象だが映画は何かの表象ではなく映画そのものであるべきだ」などと上に書いたが、そうしたハッタリくさい言説は、そうした文学系言説のイメージにたぶん乗っかっているのだ。
そうした文学系言説は、今から思えばどこか暴力的だ。
なぜ暴力的になるのだろう。ちょっと考えて思いついたのは以下のこと。
文学の作品とりわけ小説の面白さとは、文章による緻密な説明が構築されながらも、どこかでその構築が一気に破壊されるところにこそある。そんな共通認識が文学系言説の根本にあるからではないか。そしてその根本の暴力性は小説を論じる際にもなぜか影響する。つまり、主に批評と呼ばれるジャンルの文章もまた、きわめて緻密に難解に構築されていったかと思うと、ふいにどこかで暴力的な飛躍が起こる。
(そしてまたプーチンの顔が浮かぶ)
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そうして極めてヘンなことを述べる。
文学が暴力だとすると、暴力ではないものが哲学だろう。つまり文学は言論活動のようで言論活動を裏切っていく。文学はいわば戦争なのだ。かたや哲学は胃が痛くなるような外交だ。
なんでこんなふうに思ったかというと、『哲学入門』(戸田山和久)という新書を念入りに読んだことが影響している。この本は「表象」をまさに取り扱うのだが、文学系言説における表象の取り扱い方とはまるで異なっている。つまり同書の言説は非常に突飛ではあるが決して暴力的ではないのだ。
私たちは、何かの議論を続けているとき、どこかで我慢できなくなって暴力的になりその議論を壊してしまいがちだ。むしろそのほうがスカッとして相手に勝ったような気にもなる。
もちろん文学の議論において暴力的というのは「分厚い本で相手を殴る」という意味ではない。文学は本当の暴力ではありえない。だから文学が時に暴力的であっても相手が本当に死んだりはしないので、まあいいかとも言える。とはいえ、構築された議論自体は暴力によってやはり「死んでしまう」。
プーチンは暴力を捨てて外交をせよ。文学を論じる者は時に暴力的でもいいが外交的な努力を忘れるな。――というのが本日の主張。
なお、最後にややこしい補足を述べておかねばならない。戸田山和久『哲学入門』は、自然科学の世界観に立脚したうえで「表象」とは何かを延々考察していく稀有な一冊だ。そこでは「意味」「機能」「情報」などの概念が生物進化の観点から思いがけず一新されていく。それが文学系言説の「表象」と無縁なのはもちろんだが、その考察はいわゆる哲学系言説ともじつは遥かに遠く隔たっている。この本が稀有なのはまさにこの点だ。
★哲学入門/戸田山和久