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【2019 輪廻転生】

★語りえぬものを語る/野矢茂樹

 語りえぬものを語る


この本の捨てがたいところは、内容のほかにもいろいろある。たとえば「入口も出口もなく、たまたま立ちつくしたところから始め、茫然と立ち止まったところで一休みするというのも、哲学のふつうのあり方なのである」などと書いていること。こういうものはなかなか論文にはなりにくいとも言う。

とはいえ「読者を啓蒙しようなどとはまったく考えていない。私はひたすら自分の哲学的思索の最前線を毎回刻み込んでいった。これが、私の哲学の現在位置にほかならない」と明言する。つまり、読みさえすればそこに触れられる可能性すらあるということであり、それもまたたいへんありがたいことだ。
それでいて、「ときに冗談をまじえながら、可能なかぎり読みやすい文章を心がけたが、それは読者サービスではない。それが私自身の思考のスタイルなのである」というのも、そうだったのかという非常な驚きだ。

ときに冗談をまじえながら、可能なかぎり読みやすい文章を心がける。――こうした問いには、こうしたやり方のほうが、むしろ正答に達しやすいのかもしれないとおもうと、なにかこう、哲学というものが、がぜん身内のごとく感じられてくる。


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「メールにはすぐに返事する」習慣は一生かければ身につくかもしれないが、一生をそれに費やすのもどうかと思案する。とはいうものの、一生をかけるほどのことが、何か本当にあるかというと、なかなか。

何に一生をかけたいかは、人によって実にさまざまだが、それにしたって「猫も後悔するんだろうか?」なんてことを考えることが、それに値すると思う人は、さすがに少ないだろう。しかし全くいないわけではないのが、この世の面白さであり生きがいだ。野矢茂樹先生はそういう人だ。私もけっこうそうだ。


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まず、同書の始めのほうの内容について、以下に。

「電子は存在する」が私には真だが、人によっては「電子は存在しない」が真であってもよい、と野矢茂樹は述べる。同じく、「霊魂は存在しない」が私には真だが、人によっては「霊魂は存在する」が真であってもよい、と同書は述べる。真理は必ずしも絶対的ではなく、ある種の真理にかぎれば(たとえば電子や霊魂が存在するかしないか)、相対主義が成り立だろうという主張だ。

「電子があってこそ、この世界が説明できる」という人と、「電子なんてないけど、この世界は説明できる」という人。2人がいるとき、「2人のうち1人しか正しくない」とはかぎらず、「2人とも正しい」ことがありうる、と野矢先生は言うのだ。

さて、「放射線は存在しない」という人はごくまれだろうが、「放射線被曝の発がん性における閾値」ということになると、「存在する」「存在しない」に分かれる。「どちらかが正しいはずだが、まだわからないだけ」だと思うが、ひょっとして「どちらも正しい」ということがありうるのか?

「霊魂は存在するか」と聞かれれば「ない」と言いたくなるが、「亡くなった家族や友人はもうまったく存在しないのか」と言うと、微妙な気持ちになる。それは「存在」の意味が違うだけとも言えるが、本当にそうだろうか?

なお時節柄、このあたりを読んでいると、原発事故による放射能リスクをめぐる深刻な対立とは、じつは、電子や霊魂のあるなしに匹敵するほどの世界観の根源的な対立ではないか、という気がしてしまう。ふつうに言い換えれば「科学か宗教か」だろう。でももう少し丁寧に言いたい。「科学しか信じない人」と「宗教しか信じない人」の対立か。……いや、そうではない、「科学だけは信じない人」と「宗教だけは信じない人」の違い、と言うべきだろう。


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他の内容についても少し追記。

アラカルト的に1つづつ味わわせてくれるのだが、野矢ならではの核心がどこにあるかが徐々にわかってくるし、それらが相互に繋がっていることも徐々にわかってくる。それは『哲学航海日誌』に似ている(asin:4393323017)。今回のその核心は「相貌」というキーワードをめぐることになる。

『哲学航海日誌』を読んだ記憶を合わせて概観するなら、野矢茂樹が言いたいことというのは、言語には中心と周辺がある、言語には基盤と使用がある、言語は使われることで無限の広がりを産み出す、といったことなのではないだろうか。

そんな野矢的な核心のなかで、論理空間・相対主義・経験を超越した概念は存在しうるのか(クワインホーリズムと、それに対するデイヴィッドソンの議論をめぐって)・翻訳できない言語はあるのか・グルーということ・私的言語、などについて野矢の考えが次々に説明される。それらが連結されて整理される。野矢の考えは至極常識的なものに思えるので、その説明がすっきりなされるのは、とても気持ちがいい。「そうかわれわれの言語生活は健全なのだ」と安心できる(健全とは論理学の健全という意味ではない)

そのあと、われわれは自由にふるまえるのか、科学は世界を語り尽くせない、といったテーマの回があって、同書は終わる。

繰り返すが、今回の本は「相貌」がキーワード。それは、言葉というものが、文法や論理よりもうすこし広いところで、本質的に何をしているのかの基本として、きわめて重要な構図を説明する(それは、何かに気づくというよりは、漠然とわかっていることをとてもクリアな説明として納得させてくれた、というかんじ) 言い換えれば「文脈とはなにか」ということかもしれない。