東京永久観光

【2019 輪廻転生】

★暇と退屈の倫理学/國分功一郎


 暇と退屈の倫理学


《この本は俺が自分の悩みに答えを出すために書いたものである》 

著者は冒頭でこう書いている。研究とはそういうものかとまず思う。いや案外そういうのこそありなのか。それにしても、念願の自著のテーマに据えるほどの「悩み」が「暇と退屈」であるかどうかは人によるだろう。育ってきた環境によるだろう。もし私が「おまえの悩みをテーマに本を書いていいよ」と言われたらどうしよう。「怠けと焦燥の精神学」とか? そんなことを考えながらページをめくった。

それと、こと悩みの解決に人文系とりわけ哲学の勉強が本当に役に立つのか、という疑問も当然出てくる。これについては読み終えて思う。哲学によって悩みは問いへと姿を変え大いに深まるのだと。そうして思索はあちこちに広がり悩み自体はもうどうでもよくなっている。だいたいこれほど全力で調べたり読んだり考えたり書いたりすることが、悩ましいどころかすごく楽しいのでなければ、だれも哲学などしないだろう。

そんなことはさておき。

 *

同書は、哲学の有名どころを次々に登場させ、彼らの暇と退屈をめぐる考えをかみ砕いて示してくれる。そこには「へえ、あの人が暇とか退屈についてこんなこと言ってたとはね!」という驚きがある。またそれ以上に、彼らが考え抜き編み出してきた思考の強烈さに打たれてしまう。とりわけマルクスハイデッガーハイデガー)の言い分が私には面白かった。

同書がマルクスから何を引き出すのかというと、マルクスは「現実の労働のつまらなさをよく見つめて批判しよう」と主張したが、だからといって「本来の労働とはこういうものだから、この本来の労働に戻れ」と主張したわけではないということ。これを教訓に、退屈という問題を考えるにも「退屈のない本来の生」などというありもしないものを想定するのは間違いだと、著者は言いたいようだ。それはやがて「退屈は結局まぎらわす以外にない」といった結論につながっていく。私はそのように読んだ。

ただ私が特に面白かったのはもっと別のところ。以下。

マルクスは、金のため他人のための労働なんかダメだと主張していた。ただし労働するなというのではない。「労働日の短縮がその根本条件である」。資本論にそう書いてあるというのだ。自慢ではないが私は就職した1980年代からずっと週3日制の理想を唱えていた。週休3日制ではなく週3日制だ。労働なんて週7日の半分以下でよいという思想だ。周囲に賛同する人は少なかった(今も)。ところがマルクス君だけは100年も前にわかっていた、労働日の短縮が根本だと。

もう一つ感動的なことに、マルクスは次のようなことも述べたそうだ。――共産主義社会では、どこでもすきな部門で自分の腕をみがくことができる。だからこそ、私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べの家畜の世話をし、夕食後に評論をすることが可能になり、しかも、けっして漁師、漁夫、牧夫、評論家にならなくて良いのである――。この理想社会は、よく言われるようにソ連や中国の共産主義ではまったく実現せず、なぜか日本の現代都市生活でいくらか実現してしまっているようにみえることが皮肉であるにせよ(とりわけ、評論家にならずして毎食後に評論ツイート)、ともあれマルクスは最も高いところに狙いを定めていたのだ。

ハイデッガーについて。ハイデッガーは退屈についても思索しており、著者はそれを「退屈論の最高峰」と位置づける。しかしそのうえで、ハイデッガーとは正反対の方向に退屈の解消法を見出す。同書の核心はここにあると思う。

私なりにまとめると――。ハイデッガーは、たとえばパーティに出てウダウダしているような「気晴らしと退屈の入り交じった」生活から脱けだし、自分がなすべきことを決断しろと迫っている。しかし國分はそうした決断は盲目になることであり「狂気」だと反対する。そしてむしろ、気晴らしと退屈の入り交じった日々のほうを「正気の人生」として推奨するのだ。國分は同様に「ロマン主義」にも否定的だ。

そして実は、多くの読者とは違うのではないかと思うが、私は「暇と退屈の正気」より、批判された「ハイデッガー的な狂気」のほうに気持ちが傾くのを感じた。

なぜだろう。人生というからにはちゃんとした目的がないといやだと内心思っているからだろうか。あるいは、いつか必ず死んでしまい無くなってしまうなんてそのままでは耐えられないと内心思っているからだろうか。人生は無ではない、人間は無ではない、退屈するために生まれてきたのではないと言いたいのだろうか。つまり、ハイデッガーの思想やロマン主義のほうが、私の正直な感覚には近いのかもしれない。

ハイデッガーと國分の相違から、小林よしのりの『戦争論』を思い出した(新・ゴーマニズム宣言SPECIAL)。小林よしのりは、いってみれば「現代日本の退屈生活より戦前日本の決断生活のほうが人間のあるべき姿だ」と主張した。ただし『戦争論』を読んだときは、「いくらただれきった日々であれ、戦場で殺し合ったり空襲に逃げまどったりする日々よりよっぽどマシじゃないか」と私は反発を覚えた。今回とは逆だったのだ。asin:4877282432

死んでもよいほどの価値や目的がはっきりしていて実際にそこに飛び込んでいく人生。そうしたロマンは一時しのぎだけであり基本退屈しながらだらだら平穏に生きていく人生。どちらがよいのだろうと改めて考える。もちろん戦争はいやだ。しかし決断やロマンをまるきり欠いた人生を、あなたは老いるまで死ぬまで本当に楽しく続けられるだろうか。それが「暇あり退屈あり」ならまだ許せる。しかし「暇ぜんぜんなし退屈しまくり」のワープア的、ワタミ的な一生を送るくらいなら、自爆ゲリラのロマンほうがまだマシだよと思う人がいても、不思議ではない

 *

このほか、暇と退屈にからめて紹介されるボードリヤールコジェーヴも面白かった。

「暇であり退屈である」状態だけでなく「暇ではないが退屈である」という不思議な状態について同書は特に注目するのだが、ボードリヤールの捉えた現代人の姿はまさにそうだということになる。また、消費とは浪費ではないがゆえに満足に達することがない、というボードリヤールならではの見方も示される。

コジェーヴは、近代を超越したかのような江戸社会の平和を評価して日本は歴史が終わった国だと述べた。しかし國分は、日本はそのあとに特攻隊という決断とロマンを生んだ国でもあり、コジェーヴの指摘は事実に合わないと反論している。

 *

ロマン主義について補足。ロマン主義とは「他人と違っていたい」ことなのだと同書は述べている。なんかこう、ロマン主義の正体が平易にわかって驚いた。そもそも人は「他人と違っていたい」という願いをずっと抱いてきたのかというと、大変疑わしく、スヴェンセンという人によれば、この願いはロマン主義という起源を持つというのだ。「♪世界に一つだけの花」はロマン主義の歌だったのか。

 *

このほか、退屈の起源が「狩猟社会から定住社会への移行」にあるのではという考察もある。また、ユクスキュルの「環世界」という概念が持ち出され、ダニの世界にはにおいと温度しかないとかミツバチが一心不乱に蜜を集めるとき退屈はしていないといった見方も、同じ勢いで展開される。ほんとかなと思うところはあったが、発想が縦横無尽に大胆に飛んでいくのはエキサイティングだ。