東京永久観光

【2019 輪廻転生】

★「高度な言語が生まれた理由」(C.ケネリー)

https://www.nikkei-science.com/sci_book/bessatu/51242.html

別冊日経サイエンスもうひとつ『人間らしさの起源』(2020)から「高度な言語が生まれた理由」(C.ケネリー)

 

《人間の言語のこのユニークさを説明できるような人間特有の生理的、神経的、あるいは遺伝的な形質を発見する試みは失敗に終わってきた》とアブストラクトにある。

だれもいつになっても「言語の遺伝子はこれです」とは特定できないという事情がたしかにずっと続いてきたようだ。ということは、多数の遺伝子が偶然奇跡的に連携した結果として、多数の神経や多数の生理が偶然奇跡的に連携した結果として、言語は生み出された、ということになろう。

これは信じられないように思える。しかし、たとえば「歩行の遺伝子はこれです」と特定することもできないように思われる、と考えると、うなずける。

あるいは、恐竜の体に生えてきた毛から、わりと短い期間に、翼が生み出された、という事実を、その偶然の奇跡に匹敵する例として挙げるべきかもしれない。(それとも「飛翔の遺伝子はこれです」と特定できるのだろうか?)

そうすると、人間の言語なんてものが驚異的な進化であるように、鳥の飛翔なんてものも驚異的な進化だと感じるべきかもしれない(他の系統の生物も飛ぶという点では収斂しているものの)。言語が簡単ではないように、羽ばたいて飛ぶことも簡単ではない(人間には真似すらほぼできない)

しかし、そうするとここでどうしても次の問いが浮かんでくる。なるほど飛翔という形質は生物の進化において偶然起こったとしても、そもそも飛翔という機構自体が地球という特定の環境の星において現れることは「必然だった」ようにも感じられませんか? ということだ。

大気中を直接移動するといったかなり一般的で不可欠な課題において、極まった形式として飛翔(または飛行)があるのだとしたら、その課題を偶然必要とした多数の生物(あるいは人工物)たちのどれかは、最後にはどうしても飛ぶことになるのではないか。必然的。

言語や知性というのは偶然というより必然ではないか。多数の言語や多数の知性があったとしても究極は一致するのではないか。――私はひそかに(Jアノンのごとく)そう信じているのだが、その拠り所として、それ(飛ぶことの収斂)との類似に改めて注目したくなってきた。

 

さて記事に戻って――。

言語に特異的な遺伝子が見つからないという事実は、人間の脳が柔軟で何にでも対応することを示してもいる。こんな例を挙げている。「蒸気機関車の時代に生まれようがスマートフォンの時代に生まれようが、人はみな生物学的特徴を変えることなしに、うまく対応して生きてきた」

これはつくづくそう思う。中世ではなく20世紀や21世紀に生まれた私たちは、仕事や生活における(さらには価値観においてすら)仕様変更に次ぐ仕様変更という過酷さにさらされつつも、みんなけっこう健気に耐え抜いている。人間をほんとに愛しく思う。神はいないが人間をほんとに愛しく思う。

 

◎関連(別の号の日経サイエンスから)

★日経サイエンス 2018年12月号 特集:新・人類学「ヒトがヒトを進化させた」 - 東京永久観光