https://www.nikkei-science.com/sci_book/bessatu/51231.html
別冊日経サイエンス『アントロポセン』(2019年)を手にした。去年あたりの流行語大賞でもよかったがそんなことはさておき、「地球の情報容量」(C.A.ヒダルゴ)という記事が目についた。地球にある資源で記憶媒体をいくつ製造できるかといった内容だけではないのではと期待したら、期待どおりで非常に面白かった。
たとえばこんなことが書いてある。
《例えば一本の木を、どの向きに根と葉を伸ばすかを知っている1台のコンピュータと考えることができる。樹木は寄生虫と戦うために遺伝子をいつオン・オフすべきかを知っており、いつ芽を出しいつ葉を落とすか、光合成によってどのように空気から炭素を取り入れるかも知っている》
《私たちはふつう樹木をコンピューターとしてとらえてはいないが、木々が地球上の情報の増加に寄与しているのは、それら樹木が計算をしているからにほかならない》
「表象」や「意味」を人間の記号や言語の操作に限定せず、「自然現象における何ごとか」として他の動物の生態や行動にも当てはめてみる――そんな発想を戸田山和久『哲学入門』がデネットなどを参照して示していたが、この記事では「情報」もそうしたものとして捉える、ということになろう。
さてもう1つ、この記事からしのばれるのは「情報」と「エネルギー」の類似ということで、これが私としてはいっそう興味をひかれる。
エネルギーというのは実体が何かわからない。私が不勉強でわからないのはいいとして、物理の本来としてもわからないように思われる。電気や熱あるいは運動だったり位置だったりと形は変えつつも一定の法則に従い、その量は必ず保存される。この世において決定的に普遍の何かだという感がありあり。
情報も似たようなものだと思われる。これも実体がわからないのに、一定の量として扱えるようだ。おまけに、情報の内容にはまったく立ち入らず、情報の量だけに注目し、普遍的に扱うことができる。
私におけるポイントとしては、エネルギーも情報も、物質的な実体をどうしても欠いているとしか思えないのに、存在していると考えないととても困ったことになるということかな(物理学の全部が成り立たないようなことになるということ)
そのうえで、「ものごとすべてはエネルギーに換算できる」といったことが言われていると思うし、それは一般的に納得しやすいとも思う。しかし「ものごとすべては情報に換算できる」と言われたら、納得できるだろうか?
「ものごとすべてが情報に換算できる」とは、あらゆる原子や分子のふるまいを情報に換算して統一的に記述できるかもしれないように、私が今ここにツイートした140文字もまったく同じく情報に換算して記述できるということか? 同一の量として相互作用もできるということか? わからない…
ともあれ、エネルギーを記述する数式や法則と、情報を記述する数式や法則とは、1つになる、少なくとも似たものになる、といった感じがみてとれる。
いや、真に重大なのは次のこと。「この世のあらゆる事象はエネルギーに換算できる」または「この世のあらゆる事象は情報に換算できる」、ここがゴールではない。それどころか、「この世のあらゆる事象の実体はエネルギーなんです」「この世のあらゆる事象の実体は情報なんです」。さあどうか?
「It from bit 」ホイーラーさんという偉い人がそう言った。量子力学を少し知ると、マジにそんな気がしてくる。この世のあらゆる事象の実体(正体)とは、まさかまさか、しかししかし、ほんとうに情報なんじゃないかと。これはわりと一般に誰でもそう思うにいたるはずだ。
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さてしかし、先日から小出しにしている『〈現実〉とは何か』という一冊は、この世の事象の根本に「粒子という実体があるわけではない」ことを改めて示しつつ、だからといって「場という実体があるわけでもない」ことを、静かに淡々と徹底的に執拗に強力にめらめらと説いていく。改宗する予定。
それに倣って私なりにまとめるなら、「すべてを情報として統一的に記述できること」はこの世の本質であるとしても、しかし「情報という現われがこの世の実体というわけではない」。ややこしいがそういうことになる。粒子という現われも波動という現われもエネルギーという現われも、また同じ。
(参照)https://tokyocat.hatenadiary.jp/entry/2021/01/04/000000
書きたいのになかなか書けなかったことをやっといくらか書いたので、伸び放題だった髪を切ってさっぱりした気分だ。