★ランドスケープと夏の定理/高島雄哉
表題作を読んだ。まさに日本のテッド・チャンかグレッグ・イーガン(誰しもそう言うだろう)
作中まず「知性定理」なるものが示される。「知性は互いに翻訳可能」という原理。つまり私たちの数学や言語はいかなるAIや異世界の知性にも必ず通じるはず、と。
この小説は「この本がスゴい!2018」で知った。知性定理への強い関心が語られ共感するところ大だったので、すぐ読んでみた。「知性は必ず同一のステージに達する?」「人間の数学や言語はもしや普遍的に高度なのか?」ということでは、私も数年思いを巡らせている。
ただ小説は、知性定理を前提として示したまま、宇宙ステーションへの飛行や脳の情報の転送といった話になり、どうなるのかと思っていると、この宇宙内にインフレーション期に入り込んだという別の宇宙への進入が目論まれ、地球外どころか宇宙外の知的存在とのコミュニケーションを探ることになるのだった!
もういろんなことが言いたくてウズウズして銀河を作ってしまいそうな勢いなので、少しずつ言うが―
まず思い出したのは、先日読んだ『日経サイエンス 2018年12月号 特集:新・人類学』
「知的生命体は天の川銀河にかぎれば1つだろう」という記事も興味深いけれど、それよりも、「ランドスケープと夏の定理」で描かれる「私たちの宇宙が偶然もう1つの宇宙を囲い込んた」プロセスが、ある細菌が別の細菌を囲い込んだイメージに似ていると思った次第(以下)
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20181108/p1
また、小説の冒頭には《水飲み場へ向かうとき、外敵を追い払うとき、配偶者を求めるとき、どんな生物も数学的に最短の距離を計算している。生物ごとに環境や事情は違っていても、生物ごとに異なる数学というものは存在しない》!。まだ数ページなのに、立ち上がって拍手したくなった(ただ腰が…)
この件では、かつて「素数ゼミは数学を知っている?」という形でいろいろ考えたことがあった。しかもそのとき、私も他の動物も歩いた距離と飲みたくなる水の量は「同じ三平方の定理に従うだろう」という問答をした。ひょっとして私は、この小説の主人公の脳データが量子的に転送された別人格なのでは?
そのときのブログ「十七年寝太郎(素数ゼミ)」
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20070607/p1
一方「言語は普遍か」という問いが立つ。そもそも言語とは何だろう。動物はみな世界を脳という内部に表象するようだが、人間だけはその脳内の表象をなぜか再び脳外に表象する。「それが言語なんだ」とあるとき気づいた。では問う。世界を表象することは普遍か? 表象として言語という形式は普遍か?
答えは多様だろう。ただとにかく、『ランドスケープと夏の定理』の後半、次の記述があり、改めてこの問いが思い浮かんだ。
《外部宇宙では何がどこにあるかによって状態が変化するが、ボール内宇宙では何がどの程度あるかによって状態が変化する。存在に関して指定できる情報が、存在の位置や速度などではなく、存在の濃度のみに特化されているのだ》(外部宇宙=私たちの宇宙、ボール内宇宙=全く異なる別の宇宙)
《そして内部における存在濃淡変化などの自己入力や、スキルミオンを通じてのエネルギー流入といった外部入力があるたび、対応する宇宙全体の状態が出力され、各々の存在者は当該の状態に含まれる濃度に応じて顕現する》(スキルミオン=その世界における素粒子の励起状態みたいなもの)
「よーし わかった!」と合点するには勇気がいるし、だいたいどこが言語の話なんだ? と言われそうだが―― 表象すること自体は知性の普遍だと仮定したうえで、その表象の形式もまた普遍なのかと問うことができる。
そのとき、私たちの言語は けっこう特殊な形式に思えてくる。直線的である(ひと続きで一方向の流れでしか記述も読解もできない)、分節できる、たいてい主語+動詞になる、など。それと異なる、絵の具を混ぜるような言語とか、和音が瞬時に鳴るような言語でもよさそうだが、なぜそうでないのか。
私たちの言語の形式は、地球の生物としての特性に限定されるからだと思う。すなわち、太陽光と眼球のおかげで世界は目に見える存在として受けとめられるとか、その世界を自分の体が動き回れるとか、自分と他の物の区別ができるとか。そういった特性が人間の言語を規定しているように思う。
そうしたうえで、ではたとえば植物だったら、植物は神経がないので意識も言語もありえないと思うが、仮に植物が言語を備えたら、その言語はたとえば形容詞だけで出来ていたりしないか。「アカルイ」とか「サムイ」とか「ダルイ」とか。――そんなことを、むかし考えた。http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20080408/p1
「ランドスケープと夏の定理」先ほどの引用箇所を読んで、この「植物の形容詞だけの言語」というイメージが蘇ってきた次第。とはいえ、そのボール内宇宙の場合、世界は場所や時間という枠を超えた状態で受けとめられるようであるため、植物の仮の認知もそこまでは無理かもしれない。
「知性定理」をめぐってもう1つ。
私たちの知性を超えた知性があっても、私たちの知性を超えたものであるがゆえに、私たちには知りえない・わかりえない、という原理が考えられる。このことをマーク・ハウザーという人が主張していたのを思い出す(以下の日経サイエンス)
http://www.nikkei-science.com/page/magazine/0912/200912_038.html
つまり、私たちの知性が特別に高い質を備えている(その可能性は大いにあると思うが)としたら、サルやイヌやネコにはそれが理解も想像もできない。どこか遠くの生物やどこか近くのAIの知性が、私たちのそれを超えているなら、私たちにはそれは理解も想像もできない、ということになる。
さらに言うと、「人間の知性とは登るところまで登りつめた知性なのか」という問いの答えも、原理的に知りえないのかもしれない。「私たちのゲノムのままでは無理なのだ」「知性のゲノムが進化すれば、知性は必ず断絶するのだ」ということ。そのことを以下に書いた。
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20131109/p1