また分厚い本を読むことにした。ジョセフ・ヘンリック『文化がヒトを進化させた』。しかしなかなか全ページ読み終える瞬間を想像できない。吉野家の紅ショウガの容器の最後の紅ショウガを食べる瞬間が想像できないのに似て。
<12月13日>
「文化による進化」と言われても「環境による進化」と違って直感しにくい。でも、進化=「ある文化やある環境ではある遺伝子が有利に働いて残るはず」という原則を踏まえれば、単純な話だとわかる。同書には、青い瞳、牛乳で下痢するか、酒に強いかなど、よく知られている例をまず挙げている。(なお、ここで引用すべき典型例は他にある)
それより、この本で改めて気づかされるのは、人間は知能が特別に高いから繁栄したのではないこと。知能は意外にも他の霊長類とさほど変わらない(劣っていることすらある)
そうではなくて、生存に直結する多数の知識や複雑な技術(すなわち文化)を、ひたすら模倣するような動物だったことが、圧倒的な勝利をもたらした。いずれも一人の知能や一生の体験だけでは到達できるはずがないものばかり。この本でそれをありありと思い描くことになる。
この模倣ないし学習をめぐり、私たちが規範というものをやけに重んじる(言い換えれば、みんなに合わせられないと嫌われてしまう)理由も見えてくる。なにかを理解することがなぜ好きかという理由も見えてくる(※これは私の思いであり、同書では記述されていない)。要するに進化的に有利だったという話になる。心の進化(進化心理学)の話になる。
それと、それらの習慣や規範は、なぜそうするかの理由を私たちはほとんど理解せず、ただ従っているだけ。この際立った奇妙な特徴も見逃せない。これはデネットが「理解力なき有能性」とまとめていたことと同じだろう。進化の事実をよく知るキモは、やはりこうした点にあるようだ。
<12月20日>
『文化がヒトを進化させた』(ヘンリック)。同書は、文化こそがヒトという比類のない種を作り上げたこと、すなわち文化こそがヒトの進化(遺伝子の変化)を左右したことを、詳述するのだが、終盤もう1つ、驚きの事実に気づかせる。文化は「遺伝的差異」を用いずして「生物的差異」を駆り立てる!
具体例として、文字を読むことで視覚野やブローカ野が変化することをまず挙げる。ほか、ロンドンのタクシードライバーは海馬が増強されること、中国系の人は占星術が運命づける病気に実際にかかりやすいこと、などが非常に興味深い。
《ヒトの集団間には、制度、技術、および習慣に関連するさまざまな面において相当な心理的差異が生じる可能性が高いが、そのような心理的差異は、結局のところ(非遺伝的な)生物学的差異なのである》
ここで深く感慨にひたるべきは、それが遺伝的差異ではないことよりも、それが「生物学的差異である」という点だろう。
私たちは、新しいソフトやスマホを使いこなし、新しい流行や制度を受け容れる。そんなことができるのも、私たちのニューロンやホルモンが大急ぎでネットワークの改変を行ってくれるからだろう。21世紀の私は、19世紀の誰かとは、いや20世紀の私とも、生物学的に同じではないということになる。
前々から思っていたことを1つ、ここにつなげておく。いわゆる萌え絵。あの絵柄に萌えるのは自然なことだと今ではたいていの世代が思っているかもしれないが、少し古い世代はおそらく萌えない。それは浮世絵の春画に萌えないのと同じこと。これこそ遺伝子の差ではないが生物学的な差ではないか!
以下も関係あるだろうか。
「野生のネコとイエネコは遺伝的に大差がない」という記事
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/17/062100235/
もともと野生のネコにも潜在していた性質が、人間に飼われるという新しい文化のもとで、引き出されてイエネコになった? 遺伝的には同じだが、生物学的に違う?
イルカがあんな曲芸をするのも、べつに進化したからではない。もともとできるけれども、あえてしなかった身体の極端な動きが、開花させられた。…ちなみに、この本の見過ごせないキーワードは人間の「自己家畜化」!
改めて思うが、こうした話に絡んで、ヘンリックが「生物学的な差異」と断言するとき、とても大胆な視点変更をしているのだろう。言い換えれば、進化というものを、遺伝子という限定を取り払って広い概念で見ていく。その視点なら、まあいろんなものが進化する。人工知能なんて進化して当たり前。
(下へ続く)
https://tokyocat.hatenadiary.jp/entry/2020/01/19/000000