https://tokyocat.hatenadiary.jp/entry/2019/07/14/000000から続く
↓
『量子力学のイデオロギー』、やっぱり頭と心を完璧に奪われる。私がずっと愚鈍に考えていることの、明晰な答え、少なくとも明晰な問いが、ここには書いてある。
同書にはプリンキピア(ニュートン)の意義を考察した章もある。著者は、近代科学がキリスト教を継承したという観点にはっきり立ったうえで、両者における「合法則」(一切はなんらかの規則に従っている)と「合目的」(一切はなんらかの目的に向かっている)を見つめ直す。
え? 「合目的」なんて、そりゃ宗教にはあるけど、科学にはないだろう、と思うわけだが、そう単純でもないところが、読みどころ。次に引用。
《現代科学が描く世界の創成と運命も、現在の価値ある人間世界が実現する必然性について語ることになる。それは現に人間が存在しているのだから当然である。実証性を重んじる科学の立場から言っても、ランダムに起こったにしては驚くほどに組織化された世界を発見しつつある。そこに神の意志を読むのではないにしても、一体この世界は何に向かって進んでいくのか、という問いから目をそれすことは不可能だと言ってよかろう。また、科学はいかに人間からの独立性、客観性を装おうとも、上述のような人類の関心から独立してはおれないであろう》p.148-149
ちょうど1年ほど前の夏。無神論について考えていて、そうか「世界そのものに目的や意図なんていっさい想定できない」、それを思い知ることこそが無神論の核心なのだ、と膝をたたいた(骨折するほど)。その昂揚と動揺が同書によってよみがえる。
そして、ここがポイントだが、無神論者がそれでも神を探してしまうのは、それでもこの世の背後になんらか「目的」や「意図」を探してしまうこととイコールなのだ。そんなことを、17世紀のニュートンではなく、幸福の科学の人でもなく、佐藤文隆先生自身が思っているかもしれないところが、驚き。
プリンキピアの発見は、《神の御業を説きあかす営みと位置づけられた。有神論も合理化が進めば理神論となり、さらに汎神論となり、そこまでいけば無神論とは言葉の差である》p.147 → 今ここ(私) というやつだね。
*
ところで、そんなこともあって、力学の基礎をちょっと勉強してみたら…
Cool !
それで、ふと思い出した(下)
♪ わずらわしさに投げた小石の 放物線の軌跡の上で 通り過ぎてきた青春のかけらが 飛び跳ねて見えた