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【2019 輪廻転生】

そうだったのか無神論


明治生まれの私の祖母は、米びつに米を長く置いておくと虫になってしまう、といったことをわりと信じていた。それに対し、私が近ごろ「無神論」と呼んで自覚と興味を抱いているのは、「米が虫に変化する仕組みなど存在しない。少なくともまったく解明されていない」と言い放つような態度のことだ。

祖母は毎朝仏壇にご飯を供えたり手を合わせたりしていた(今も思い出す)。おそらく神仏という基盤があってこそ自分たちの世界は成り立つということをリアルにイメージしていただろう。そこでは死んだ人は見えないけれどまったく消えたわけではないと感じていただろう。

先日はテレビで空海のことを少し考えたわけだが、空海と私の祖母では、それを精緻に理解するか漠然と感じるかの違いはあっても、神仏を基盤にした一定の大きな世界像・世界観そのものは、だいたい同じだっただろう。

さて、空海たちにやや遅れつつ、西洋ではキリスト教が精緻に研ぎ澄まされていったと思う。神を信仰する強烈さは、神の戒律の強烈さ、神の理屈の強烈さでもあったのだろう。このキリスト神学の精緻さは延々と受け継がれ、デカルトニュートンの哲学や科学の精緻さにも通じていると思う。

では、いわゆる「神は死んだ」以後は、西洋中世のキリスト教のごとく、特異ながらも確固たる世界像・世界観が、きわめて大勢の人々の思索や実践とともに、精緻に精緻に研ぎ澄まされていった例は、皆無なのか。……というと、マルクス主義は、どうやらそうした強烈な時期がけっこう長かったのだ。

なぜ急にマルクス主義かというと、読み継いでいる『そうだったのか現代思想』(小阪修平)がコンパクトな教科書とも言うべき有益本で、哲学が近代から現代に移行するなか、まず哲学を批判する側、やがて哲学から批判される側として決定的な役割を果たしたものが、マルクス主義だったと知ったから。

――というわけで、マルクス主義は、かつて、仏教やキリスト教に負けないほど、世界中の賢人たちによって、その実践と理論が強烈に精緻に積み重ねられたのだ。レーニンの革命も毛沢東の革命も見たことがない私などには、なかなかイメージできないのだけれど。

(思えば私がテレビで目撃したのは、ソ連とかベルリンの壁とかチャウシェスク政権とかマルクス主義っぽいものが崩壊していくほうの革命ばかりだった。ちなみに、第二次大戦も日露戦争西南の役応仁の乱も私は目撃していないが、今しも「小池の役」を目撃している最中だった)

=ところで、小池百合子の話がしたくて書き始めたわけではない。話は小阪修平『そうだったのか現代思想』の感想へと続く予定=

★そうだったのか現代思想小阪修平
  そうだったのか現代思想 ニーチェからフーコーまで (講談社+α文庫)