★進化の運命〜孤独な宇宙の必然としての人間/サイモン・コンウェイ=モリス
ざっと読んだ。私にとっては最も知りたいような問いがまさに問われているので、もう1回くらい、今度は精読しようと決意。
どのような問いか。自分なりに言い換えつつまとめておく。
【問1】進化の歴史を巻き戻したら、
人間はまた出現するのだろうか
これが根幹の問い。もともとカンブリア紀に生物が爆発的に多様化したことをめぐって浮上したこの問いに、スティーブン・ジェイ・グールドと著者サイモン・コンウェイ=モリスはのちに考えが激しく対立。それは40年も続いたという。その怨念がこの本のモチーフにもなっているようだ。
その場合「人間のようなもの」とは、どれくらいの生物を指すのだろう? 著者は、2本足で歩き赤い血液が流れ花の美しさをめでるような心と言葉をもつ別の存在について最後に空想しているが、これは比喩的な話なのか、あるいは本気でそう思っているのか、どっちなんだろうと考える。グールドがどう主張していたのかも知りたい。
【問2】収斂とは何を意味するのか
人間のようなものの出現は必然だと著者は述べ、その根拠や理由としては「収斂があるからです」と言う。
しかしこれだけじゃ腑に落ちない。
なぜなら、収斂とは「ものごとは放っておくと複雑になる」「放っておくと良いもののほうにシフトする」といった生物進化の原理、あるいはまた、この宇宙の事物すべてに当てはまるかもしれない原理の、言い換えにすぎない気がするからだ。
「進化は収斂するから人間の出現は必然」「収斂によって知性も出現するはず」と主張するなら、少なくとも、「生物はこのような数少ない方向にだけ収斂しました」という具体的な説明が必要となる。
いや、同書はまさにその説明を試みているのかもしれない。その具体性をもっとちゃんと読みこめば、この本の醍醐味に達するのかもしれない。
しかしそれでも疑問は残る。具体的な収斂の描写を積み重ねることがこの本の主眼だとしたら、それがなぜ他の生物学者(グールドやリチャード・ドーキンス)の論述と相容れないことになるのだろう? 収斂の実態とは誰もが認める進化というものの実態に他ならないのだろうから。
これを理解するポイントは、キリスト教の信仰というものに対して、たとえばドーキンスは極めて敵対的だが、著者は正反対にとても親和的であることにある。
そうすると次に知りたいのは、まず、収斂という考え方がキリスト教の考え方と矛盾しないのかどうか。そしていっそう期待したい核心は、「収斂によって人間は必然的に出現したという見方が、キリスト教の考え方と結びつくことでいかに深められるのか」だ。そもそもこの核心に多くのページを割いてはいないのだが、著者の気持ち自体はしっかり感じ取りたい。
さてさてしかし、収斂ということではもう一つ重大な疑問がある。
人間の意識や知能や言語はかなり特殊でややこしい性質を帯びている。したがって、「それもみんな進化の果実でOK!」という説明だけではとても足りないと感じてしまうのだ。
意識や知能や言語といったものが、いかに奇妙か、あるいはいかにファンタスティックか。それは、ものごとのそもそもの存在とか、ものごとのそもそもの関係とか、そうした「世界の形式自体」に関わる問いではないだろうか。だからどうもそれは生物を超え、あるいは物理を超えた話になってくる。
というわけで、それくらい抽象的で普遍的な意味合いから改めて問いたくなったこともある。
たとえば、「ものごとは必ず複雑化する」というのは本当に正しいのか、とか。宇宙はひたすら複雑化してきたみたいだが、それはビッグバンの時の物理状態がひたすら単純だったから、ただそうなっているにすぎないのではないか、とか。
(そういえば、ブライアン・グリーンは「エントロピーの増大は当たり前じゃなくて、宇宙の最初にエントロピーが低かったことの裏返しにすぎないのだよ」みたいなことを書いていて、「ええ? それってどういうこと?」と思った覚えがある) asin:4794217005
【問3】DNAは必然なのか
たんぱく質は偶然らしいが
宇宙の組成である物質から生成したなんらかの分子が、なんらかの情報なんてものを担おうといった時には、「そりゃもうこれしかないね」という図抜けた答がDNAだったのだ、といったことが書かれている。そこはぜひちゃんと理解したい。蓮舫「なぜDNAなんですか? DNA以外じゃダメなんですか?」
しかもいっそう目を見張ったのは次のことだ。
DNAがワン&オンリーであるのに対し、生物の組成の実質であるところの たんぱく質はまったく違う。たんぱく質は、DNAがコードしているアミノ酸20個がさまざまに組み合わされて作られるわけだが、その組み合わせ(20×20×20×20×……)を計算すると無限といっていいほど膨大な数になるというのだ。したがって、地球に誕生した生命は、膨大な組み合わせの中からごくごく少数の組み合わせのたんぱく質をたまたま使っているにすぎない。もし他の星にたんぱく質生命が誕生したとしても、同じ組み合わせのたんぱく質を使っている確率はゼロに等しい。
で、ここで著者が言いたいのは、たしかに たんぱく質は「なんでもあり」だが、生物の進化は「なんでもあり」ではないということ。その生命がいかなるたんぱく質で出来ていようが、その生命は必ず似たような方向に収斂し、似たように優れた生物に進化するはず、ということ。
【問い4】神は絶対にいないのか
宇宙は無意味なのか
著者はもちろん進化は事実だと考えているが、だからといって無神論者ではないようだ。そうすると、著者にとって神とはどういうものなのだろう。非常に気になる。
著者の立場は、『幸運な宇宙』のポール・デイヴィスに通じるのではないか。デイヴィスは「人間は宇宙の無意味な装飾にすぎない、わけではない」と信じているようだった。サイモン・コンウェイ=モリスもまた、「人間なんて進化という偶然の無味乾燥な事実にすぎない」という説明にどうしても納得しがたいのだろう。そこは私も一応同感なのだ。
◎関連 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20091031/p1
【問い5】科学主義はちょっとだけ間違っていないか
少なくとも科学主義はどこが物足りないのか
ドーキンスに代表される「科学主義・遺伝子主義・進化論主義」とでも呼べそうな立場に対する反感が、著者にはとても大きい。
私なりに言い換えて整理すると―
科学原理主義はキリスト教原理主義に似て薄っぺらい。しかも、彼らは神をバカにするくせに、進化論のほうはまるで崇高な対象のごとく祭り上げる。本来彼らの主義に反するはずの「人間や宇宙が存在する意味」といったものまで、その薄っぺらい科学主義に担わせようとしている。ちゃんちゃらおかしい。
これはたしかに、そうかもしれない。
そして、薄っぺらくないほうの「人間とは何か」「宇宙とは何か」という問いは、むしろキリスト教の神学の蓄積のなかでこそ、しっかり問われてきたと著者は胸を張る。
つまり著者によれば、キリスト教のエッセンスは進化の事実や科学の意義と協調させて理解できるし、すべきであるようだ。ここは深く知りたいと思う。「私たちがなぜあるのか」の答あるいは少なくとも問いの正体に近づくヒントが、やはりそこにあるかもしれないからだ。
【問い6】遺伝子主義では見落としてしまうものが
本当にあるのか?
生物学における科学主義、進化論主義とは、要するに遺伝子主義ということになるだろう。
それに対して著者は、「遺伝子がすべてではなく、遺伝子をメタレベルで統括しているなにかがあるはずだ」と考えていることがうかがい知れる。もちろん強烈に興味をひく問いだ。
ただし、こうした議論において「メタレベルとはどういうものを指すのか」が、明瞭になっていない気がする。少なくとも私には手がかりもない。
池田清彦も昔から同じことを主張している。サンマのテレビ番組では池田さんと武田さん(武田邦彦)は面白すぎるが、このコンビはときどき「トンデモ」とも言われる。たしかに、この2人が「トンデモ」でないという保証はない。ただ、この2人がトンデモだと言う人が「トンデモ」でないという保証もまたない気がする・・・。
◎関連 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20060916#c1160368003
(続く)
◎非常に参考になる書評:http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20100817