「記述言語 L における文字列 x のあらゆる記述のうちで最小の長さをもつ記述」を見出せ! と。
たとえば上の画像は17KBだが、この画像を生成するプログラムは17KBよりはるかに小さいサイズだというのだ。(詳しくは以下)
ツイッターの長々しいTLも、できればそうしてほしい。
考えてみれば、私たちが夜ごと(昼ごと)に吐き続ける文言なんて、ほとんどがフラクタルとも言えるのではないか。大同小異というか。
国会論戦における首相や官僚の答弁なども、プログラムとしては非常に単純だ、きっと。
しかし!
「言語による記述によって短くできる文字列がある一方で、圧縮できないような文字列も存在しており、文字列の説明の長さは文字列そのものの複雑さと関係していると考えられる」(上記Wikiより)
ここからは比喩だが、我々はあらゆる学術論文や報道記事を本来「圧縮可能」な文字列とみなしながら読んでいるように思う。
では一方、「圧縮可能」ではない文字列とは何か。小説はそうみなされていると思われる。言い換えれば、文字列そのものに敬意が払われている。
ある小説について論じようと思ったら、まずその小説全部を引用しないと本当はダメなのです、といった趣旨のことを、高橋源一郎が昔の評論で書いていたと思うが、それを思い出す。
もちろんこれは原則であって、実際には、300ページくらいの一冊を140字くらいの荒筋によって完全に説明しきれるような小説もあろう。
それでもこの小説だけは「たった1行でもたった1語でも読み漏らしては読んだことにならないんじゃないか」とマジに思える小説も、やはり存在すると思う。この世でもっとも複雑な文字列だ。
そんな小説があまりにたくさんあるのでは、老い先短い身としては悩ましい。しかし、そうした文字列に遭遇することが、そして可能ならそうした文字列のプログラムを実行すること(つまりその小説を読むこと)が、喜ばしい人生なのであると信じることにしよう。
生物の細胞は、DNAの文字列が目の前にあれば、とりあえず頭から尻まで一目散に読むのだろうか、ジャンクとされる大部分も含めて。
馬鹿正直。
しかし「これはもう馬鹿正直にひれ伏すしかないだろ」と思い切れるような人物や仕事、あるいは小説、ブログ、TLに出会うことこそ、人生の本懐なのではなかろうか(本買いというか)
まったく逆に、冗長さをかぎりなく排した文字列が美しいのが、数学の証明式であったりコンピュータのプログラムであったりするのだろう。国語辞典やWikipediaの説明文などもそのような性質を帯びているか。
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しかしながら、人間の書く文章は、べつにフラクタル図形ほど単純な繰り返しではないとも思う。
ところが、こんなことを言っている脳研究者もいる。
《パターンがなければ、私たちは思考ができないし、生活もできない》
《ニューロンがパターンのある活動をしているからこそ、何かしらのファンクション(機能)がそこに宿る。脳の神経回路の編み方がそもそもランダムにはできていないんです》
《このようなパターンが自然発生するためには、少数のものが繰り返す、「自己複製」が鍵となります。複製していくから、必ずフラクタルになる》
《換言すれば自然界ではフラクタルしかできない》
《…実は、それは脳の制約、自然界の制約でもあります。マクロなものとミクロなものに相似性があるのは、フラクタルだったら当然のことです》
以上、池谷裕二さんの発言だ(『SYNAPSE Vol. 1』 by Academic Groove )より。http://d.hatena.ne.jp/shokou5/20100803/1280842549
ここを読んで、私は「脳の活動がフラクタルである」ということの意味がよく理解できなかったのだが、どういうことなのか非常に興味がわいた。(ここでは「フラクタル」を少し特別な意味で述べているのかもしれないが)
それにしても、もしも私たちの書く140字が常に一定の構造に収まっており、しかもその構造が、1日につぶやいたことすべてを並べたときに見出される一定の構造と相似だったりしたら、とても奇妙だが、とても驚きでありとても面白い。
さらには。ツイッターのタイムラインは個々人ごとの選択によってことごとく異なっているはずだが、そのいずれにもなぜか同じパターンが見出せる=フラクタルである=なんてことになっていたら(仮の話だが)、途方もなく神秘というか、もの悲しいというか。
でも我々の知能というのは、せいぜいそんなものかもしれない。
あるいは言語とは、実はそのような要約もしくは分析が必ずできる仕掛けだからこそ、われわれは使ったり分かったりできるのかもしれない。
…なんてことがないともかぎらない。
もうひとつ、池谷さんの発言で興味深いのは以下のことだった。
脳の各ニューロンは、そのニューロンにシナプスを伸ばしている他の多数のニューロン(親ニューロン)が「同時発火」したときに初めて発火する、という原則がある。その場合、その各「親ニューロン」もまた、さらに親のニューロンが同時発火してこそ発火する。そうなると、親の親の親の親……とどこまでも先祖がなくてはならない。しかし脳細胞といえども数に限りがある。ということは、親の親の親の位置には、じつはまわりまわって、自分をふくめた子たちが配置されているしかない。つまり、親と子は相互に役割をかえつつ繋がっている。
ツイッターの連鎖も、まさに、そんなイメージがある。
さて以下は、脳科学とは離れた話になるが:
文章Aを書いたあと今しも文章Bを書こうとしている。そのとき、文章Bの文字列はいかなる文字列であろうと自由だ。しかし、たとえば文章Aと文章Bの「論理的つながり」ということになると、きわめて限定される。
たとえば「逆説」「順接」「付加」「説明」といった、せいぜい10足らずの「つながり方」に限定される。
1個ずつのツイートの関係にもそうした「論理的つながり」は見出され、かつ、それなりに長いTL全体や、とんでもなく長いTL全体の構図にも、そうした「論理的つながり」は見出されるし、われわれはおそらくそうした「論理的つながり」を見出そうとすらしている。
文章(文字列)というのは、たとえばそうした同じ構図の無限繰り返しの無限拡大である、と言えるかもしれない。
たくさんのことを言ったので、3つくらいにまとめておく。
(1) 複雑で要約できない小説の存在を私は信じている。
(2) あらゆる文章は、少なくとも「論理的つながり」という点で、かなり限られた一定の構造のフラクタルのなかに収めることが必然的であり可能的である。
(3) 脳の個々のニューロンも、ツイッターの個々のツイートも、そのつながりは、親と子の役割は相互的である(時系列を無視すればということかもしれないが)