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【2019 輪廻転生】

言葉なしの思考は無理でも 言葉なしのインターネットなら?

ゴキブリの大群を見た松本人志の父親の脳が、闘うべきか逃げるべきかと「考える」のと、心臓を速くすべきか遅くすべきかと「考える」のとは、どう違うのだろう。

けっこう似ている。

では、脳が、「ゴキブリは昆虫か」「昆虫だ」と考えたり、「ゴキブリの足は何本か」「6本だ」と考えたり、「ゴキブリはなぜ洗剤で死ぬのか」「異星からの使者だからだ」と考えたりするのも、それと同じだろうか?

感覚神経は体から脳へ信号を入力し、運動神経は脳から体へ信号を出力する。自律神経もまた体と脳との入出力をする。これらの信号は言語の形はしていないし、少なくとも言語の形をしていなくても仕事ができる。

(ちなみに、ホルモンもそうした入出力をしているが、こちらは神経ではなく細いチューブを使う。ゴキブリだけでなく人間もまた異星人によって作られたロボットであることが、これでわかる)

(映画エイリアンでは、宇宙船に乗り込んだメンバーの1人が実はアンドロイドで、頭部がちぎれてチューブからホルモン的な液が噴き出すという衝撃的なシーンがあった)

冗談はさておき。

われわれが言語を使って考えているときは、たぶん、脳と体の間よりも大脳をはじめとする神経細胞神経細胞の間だけの(つまり脳の内部だけの)入出力が中心になるのだろう。

さてそこで問う。

脳が言語をまったく使わないで「考える」ことはあるのか、と。

あるいはこう問う。いわゆる本能的な反応に関係する脳(たとえば大脳辺縁系とか?)が「考える」とき、言語はまったく使われていないのか?

あるいは、感覚神経や運動神経になんらかの入出力があるときは、そのつど言語に関する神経もいくらかは勝手に反応してしまうものなのか? 自律神経はさすがに言語を伴ったりしないように思われるが、絶対にそうなのか?

確実に言えることは、猫は、大量のゴキブリに出会っても言語で「考える」ことはないし、仮に「こいつはわたしをエサで誘っているが、あとで捕まえて三味線にしようとしているのではないか」と本能的に危惧することはあったとしても、それをこのような日本語やあるいは英語で「考える」わけではない、ということ。

とはいえ、猫の脳からの出力はすべて筋肉や内臓を動かすだけの指令である、とまでは言えない気がする。つまり猫もまた人間のように、脳から体への出力や体から脳への入力だけでなく、脳の内部における入出力をしているのではないかと思うのだ。(猫はべつにロボットでもエイリアンでもないのだから)


ここまでをまとめると:

考える」とはどういうことか? 

(1)「言語を使うことを指す」とみてもいい。
 または 
(2)「脳の内部だけの入出力を指す」とみてもいい。
 またはもっとぐっと広く
(3)「脳につながるあらゆる神経の入出力を指す」とみてもいい。


空を眺めたり風の音を聞いたりしているとき、脳は体とともにいろんなことをしている。そのとき必ず言葉を使っていると思うのも、言葉はまったく使っていないと思うのも、どちらも錯覚なのではないか。

では、脳のとても高次のはたらきのひとつかもしれない意識や記憶であれば、どうだろう。こちらはさすがに言語なしにはほとんど成立しないのか?

われわれは夢を思い出すとき、最後には言葉を使う。しかしその言葉は夢をみている最中にも同じように使われていただろうか? 夢を思い出している今になって初めて出てきたということはないか?

生まれてから最初の記憶は何ですか。それは言葉で出来ていますか。それとも言葉なしで出来ていますか。まだ言葉を知らない赤ん坊だったころの記憶は、何で出来ていますか? あるいは、そんな記憶は存在しませんか?


またもや朝から長くなった。最初に言おうと思っていたのは、実はこういうことだった―― 脳からネットへの出力(あるいはネットにつながっている他人の脳への出力)は、今のところ、ほとんどは言語ばかりだけど、それってなにか寂しくないか、すごくなにか偏っていないか。

しかし、われわれにはこんな出力方法もある。

(1)http://d.hatena.ne.jp/heimin/20101017

(2)http://www.youtube.com/watch?v=OlUxOYVebys

現在は、脳における主に言語的な神経活動だけがキーボードを介してインターネットにつながっている。もっと情動とか痛みとかストレスに関わるような神経活動あるいは自律神経などが、そのままコンピュータにつながったらどうなるのだろう?

コンピュータやインターネットが、それ(情動や痛みやストレスなど)を、私たちの体が処理するように処理できるのかどうか。そこがそもそもわからない。ただ、もし処理することができるとしたら、それはやはりデジタルな信号として処理するのだろう。そうするとそれは言語的な信号になるのかもしれない。

ではそのときは、コンピュータの「考える」は、人間の「考える」と、猫の「考える」の、どちらにより近いのか、ということも興味深い問いだ。



 ***


上記に関するコメントのやりとりがとても面白かったので、以下に添付。


<michiakiさん>

思い付きですが、「考える」とは、言語による世界のシミュレーションではないでしょうか?


<tokyocat>

こんにちは。今回は、動物などが言語なしに「考える」としたら、どんな感じだろうというモヤモヤを主に書きました。加えて、人間はもはや動物のように言語なしに考えることは不可能なのかという思いと。言語なしの状態を直感することで「逆に!」言語の核心を直感したいと思っているのかもしれません。

それはそれとして、「世界のシミュレーション」というのは、なにかとてもポイントをついた言い方ですね。それに倣うと、「まさに言語こそが世界をシミュレーションできるほど強力な媒介なのではないか?」という気がします。言語があるから私たちは、体験を情報として整理・蓄積するだけでなく、過去や未来や現実や非現実などあらゆる出来事をまるごと実演してみることができるのかもしれません。

さてそうすると、猫もなんらか意識をもちそのようなシミュレーションをしているようにも思います。そのときは「言語なしのシミュレーション」でしょうか? それとも、人間の言語とはちがうけれども「言語にかぎりなく近い認知的なシミュレーション」がそこにあるのでしょうか? …なんてことが気になってきます。


<ROYGBさん>

コンピュータの場合は、突き詰めればCPUの処理する機械語という言語で動いていると考えることができると思います。そういう風に設計されているので。
人間の場合は、生まれたときは言語を持たない状態だろうから、そこからどうにかして言語を身につけていると思われるのですが、そうすると非言語的に言語を習得したということなんだろうかというのを前に考えたことがあります。もし言葉を使わないと考えることができないのだとしたら、どうやって言葉を使えない状態から使える状態になったんだろうとか。


<michiakiさん>

応答いただきありがとうございました。エントリを書いてみたのですがあまりまとまりませんでした。結論からいうと猫は考えないのではないかという内容になっています。感じとしては、人が「我を忘れて」何かをしている状態に近いんじゃないかと思ってます。


<tokyocat>

ROYGB様。こんにちは。

コンピュータはプログラムによって作動するがゆえに、その作動は「いわば言語的に明瞭」と言い切っていいのでしょうか? そうかもしれません。その場合、感覚神経や運動神経の出入力信号もすべてデジタルであるがゆえに「プログラム化可能=コンピュータ化可能」ということになるのでしょうか? 究極は人間の生命や知能や意識の全体もそっくりそのままコンピュータ化可能、ということにやはりなるのでしょうか? そうした問いにつながると思いました。なんとなく「チューリングマシンとはそもそも…」みたいな思案になりそうですね。

言語を1つももたない心がこんなに複雑な言語をどのように身につけるのか、というときに、たとえば「最初の1語は何であればいいのだろう」とか考えると、なんだかまったくわからなくなりますね。ここから次のような思いがめぐります。われわれが言語的にものごとを把握するときの言語の基本の構図は、ニューロンのネットワークの構図によって裏打ちされているのか、それとも、論理や数学のように、つまり私なりの形容でいうと「言語を超えた普遍的な構図として」脳を超えて裏打ちされているのか、ということです。さてさて、どう思いますか?


<tokyocat>

Michiaki様 エントリー読みました。

猫にもイメージや感情や記憶はある。しかしそれは言語ではない。――基本的には私もそう思います。

では猫のイメージや感情や記憶は「考える」には当てはまらないのか? この問いは「考える」の定義の問いに他ならないと私も思っていたのですが、今回ふと気がついたのです。この問いは、神経というきわめて具体的な物質の繋がりがどうなっているかの問いとして、まったく違った角度から答えられるのではないかと。

人間の言語活動は「末梢も中枢も含むあらゆる神経系のうち、大脳皮質の特定の神経だけの相互入出力によって(も)実現できる」なんてことはないのか? という問いです。(ただ、この問いも答をはっきりさせるのはかなり難しいかもという気もしてきました)

それより結局、「猫よ、きみたちは毎日どんな感じでやってるんだ」という問いのほうが私の気がかりにより近いですね。すなわち「言葉がまったくない心の動きってどんな感じだろう」という気がかりでもあります。(というわけで、またもや考察はぐずぐずと元に戻ってしまいました)

元に戻ってもう一回、思うところを述べておきます:

猫の記憶や感情やイメージそのものは、人間の記憶や感情やイメージそのものと、同じようなものだろう。しかし、人間だけは、記憶や感情やイメージが言語と分かちがたく結びついていることも間違いなさそうだ。

このばあい、そもそも記憶や感情やイメージが作れることと、それが言語に結びつくことの、どちらが動物のこころ(認知活動)にとってより大きな飛躍だったか。すなわち、どちらが「考える」の称号にふさわしいか。

その話とはべつにもう一つ。言語ではないが言語に近い「情報を整理統合する記号体系」を、猫のニューロンもなんらか実現させているのではないか、という気もずっとしています。そうでなければ、猫の脳において、記憶や感情やイメージそのものも機能できないのではないか、と考えるのです。

そのうちまた。