東京永久観光

【2019 輪廻転生】

フレーゲをめぐって

哲学というのは、(学問とはすべてそうなのかもしれないが)、そこに書かれた文章の意味(というか機能というか)が、厳密に固定されている。コンピュータのプログラム的な感じがする。正しく読み取る以外のことをしてはいけない。

芸術家はよく「解釈や意味は人それぞれでよい」と言うが、哲学はそれと正反対なのだ。

 
 *


夜中にいきなりつぶやくことではないのだけれど、フレーゲは、あらゆる表現の外延的な側面を「指示対象」と呼び、内包的な側面を「意義」と呼んだのだという。

集合を示すには二通りのやり方がある。ひとつは「吉田拓郎井上陽水泉谷しげるかぐや姫」といったように要素を並べていくやり方。もう一つは、「フォーク歌手」といったように要素の性質を一言でいうやり方。前者をその集合の「外延」といい、後者をその集合の「内包」という。

外延のひとつひとつは明確だが、それに対して「フォーク歌手」とは何かということになると、それは明確とはいえない。「それは心の中にあるものである」と言いたくなるわけだが、そのような言語表現のあいまいさこそ、とにかくフレーゲから連なる現代言語哲学者は、とにかく遠ざけたかった。そのために、言語表現というものを「外延」のみから解明しようとした、ということらしい。

「猫」という言葉があり、じゃあ「猫」の意味って何よ、と聞かれれば、「それは猫という観念のことだよ、その観念というのは私の心の中にあるんだよ」と言いたくなる。人が2人いて、「あ、猫だ」「ほんとだ」と会話が成立するとき、その「猫」の観念が一致しているからだ、と考えたくなる。

しかし、フレーゲは、言語表現とは何であるかを分析する際、そうした観念や心の中といったものを説明に絡めることを、猛烈に嫌った。

茫漠とした世界を眺めているだけの私たちに、言語はいったい何をしてくれているのか。そのような問いに対し、アリストテレスから2000年ほどの時を隔てて、フレーゲがまったく独自の回答を見出せたのは、そうした戦略の成果ゆえなのだろう。

その独自の回答は、私にとっても、まさに驚天動地だった。…という話はすでに書いた。http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20100523/p1

フレーゲが「心の中の観念」というものを遠ざけたかったのには、なんらかの理由があったのだろうが、それにしても、「心の中はまったく無視し、外に見えているものだけで何かの仕組みを説明する」というのは、まさに「行動主義」だなあと思う。

ウィトゲンシュタインの本を初めて読んだときの感想も、「これって行動主義的なんじゃない」というものだった。

さて。現在はもうフレーゲの時代ではない。むしろ「心の中がどうなっているか」は学問的関心の最大潮流とも言えるのではないか。言語もそうした関心からの解明が思いきり進んでいるようにもうかがえる。

観念とは何か。少なくとも「ニューロン(脳内の神経細胞)のネットワークが作り出している」。それは間違いない。

フレーゲは以下のように主張していたという。

「猫」という語の意味が「心の中のある観念」を指すのなら、きのうAさんがミケをみて「猫だ」といったときの「ある観念」と、きょうBさんがタマをみて「猫だ」と言ったときの「ある観念」とが、「同一でなきゃいけないじゃないか」と。しかし、当然ながら同一ではありえない。

すなわち、「猫」という記号は同一なのに、その観念とかいうやつはころころかわる。したがって、「ある単語の意味=心の中のある観念」という見方は間違っている。そう主張したのだ。

しかし、フレーゲに対して今ならこう答えることはできるのではないか。

言語に応じて心に中に巻き起こる何ごとかを「観念」と呼ぶのなら、「観念」とは、やっぱり「ニューロンのネットワーク」を指す、というのが最も核心的な説明だろう(あっさりしすぎてつまらない気がするけれど)

「猫」という同一記号に対するニューロンネットーワークの反応は、「だいたい似ているが、常に揺れ動いている」と説明すれば、とりあえずはOKだろう。つまり「言葉の意味=観念」と主張する場合に、観念というものが固定していなければならない、とは限らない。

「猫」という語は固定的であっても、それに対応する心の中の観念は揺れ動くのだ。言い換えれば、「猫」という語の意味はそもそも揺れ動くものなのだ。それを認めたうえであれば、「言語の意味=心の中の観念」とみてかまわないと、私は強く思う。

猫という語が使われ続けているかぎり、すなわち、猫という語によってその語を理解する人の神経細胞が活動しているかぎり、猫という語の意味は変わりつづける。

猫という語が使われなくなったとき、または、猫という語を理解する人が死に絶えたとき、はじめて猫という語の意味は固定して確定する。


 *


これはべつに、フレーゲにケチをつけているわけではない。フレーゲは、こうした言語と心の中の関係などはばっさり切り捨てたおかげで、言語表現の内部にあるというべき「ある不思議な法則」を見つけ出すことができた。「言語が世界を分節している」という見方の意味合いもまた明瞭にすることができた。

またもや「フレーゲってすごい」というのが結論だ。

言語の役割とはなんぞや? フレーゲによれば、ある事実を分節し、そこから個別的対象(たとえば「ミケ」や「タマ」のこと)と一般的対象=性質(「猫である」ということ)を取り出すことこそ、言語の役割なのだ。

言語によってこそ世界は「個体と性質の組み合わせ」として整理できる、という主張であると思われる。そんなことに気づくというのは、やっぱりすごいとしか言いようがない。

ただ、ここでまたもや大いなる疑問がわく。

だったら、言語をもたないサルやクロマグロセミは(やかましく鳴くけど)、世界を個体と性質との組み合わせとして整理することはできないのか、という疑問だ。私は「できないということは、ないだろう」とどうしても思う。

世界の分節化が言語なしでもできないわけではないとしたら、では、サルやクロマグロやヒグラシは、言語以外の何を使って世界を分節しているのだろう? これですと示すのは難しいが、とりあえず、サルやクロマグロやヒグラシの「ニューロンのネットワーク」がそれをしているとは言えるだろう。

(ところで、セミには脳はあるんだっけ? 昆虫は機械で代用可能に思えるのだが、そのとき脳は何を材料にして作るのだろう? マイクロチップ? それとも粘土?)

さてさて、言語が世界を個体と性質に分節しているのなら、なぜ言語は「そのように」世界を分節するのか、という問いが可能だ。その答えは、言語そのもののなかにあると、フレーゲは考えていたのだろうか? 

私はとりあえずはこう思う。世界が個体と性質に分節されるのは、私たちの身体や生活がそのようなものであるからだ、と。

そして、言語システムというのは、その身体や生活が反映されるかたちで成立してきたに違いない、と。

ただそれでも、謎のように思い返す問いがある。

ひょっとして、いかなる言語にも、それが言語であるかぎりどうしてもまとわざるをえない原理があるのではないか、ということ。その原理は、人間の身体や生活による特性を超えて、およそ世界を分節するという場合の普遍原理であるということはないのか、ということ。

フレーゲやその後のさまざまな言語哲学者は、こういうことについてどう思っていたのだろう。そんなことがとても気になる。

野矢先生などは「言語なしの動物には人間のような世界認識などまるきりありえない」と確信しているフシもあるが、どうなんだろう。

「もう朝か」「きょうも暑いな」「腹へった。飯はまだか」

このような世界認識をミケもタマも、けっしてもちえない、のだろうか? ほんとうのところ、どうなんだろう。あるいは、それはどうしたら確かめられるのだろう。

そう考えて、結局「心がどう感じているかを、他人が確かめることはできないよな」という別の原理がまた浮上してくる。そうすると、やっぱり、私やあなたが、あるいはミケやタマが、実際どんな言葉を使っているのか、そしてその言葉は世界の何をどう説明しているのか、という外部的な事柄しか検討しようがないのだ、とまた感じる。


 *


それにしても、「明けの明星は金星だ」という文と「宵の明星は金星だ」という文とで「意味は同じなのか、それとも違うのか」といった問いを立て、意味(指示対象)は同じだが、意義(指示の仕方)は違うのだ、といったことを延々考えるのは、人生がちょいともったいない気もする。フレーゲラッセルのように76年、97年生きてもなお短い。

言い換えれば、柄谷行人と一緒に「貨幣の本質とは何だ」ということを「考え抜き」つつずっと貧乏しているくらいなら、ホリエモンや三木谷や孫のように貨幣の本質はどうあれそれをひたすら「使い抜く」人生のほうがが、よほど得じゃないか。(とは思わないけども)

島田雅彦みたいに金の本質について考え抜いて小説を書いて金持ちになる(なったかどうか知らないが)というあたりが、人生としては正解だと私はおもう。

いやいや、一生貧乏であっても、たとえば「文は、ある事実のもとで、真または偽をあらわすのだ!」なんてことを発見できたとしたら、それ以上の人生はない。(いや、それが発見できて、かつ貧乏でもなかったら、それはもっといい)

だいぶ前に、私はこう気づいた。個人の財布の金は使えば使うほど減る(国の財布の金は使えば使うほど減るわけではないようだが)。だが、言葉は使えば使うほど増える! それはもうツイッターの登場を待つまでもなく、ブログやミクシーの時代からあまりにも明らかだった。

しかし今はちょっとこう思う。

文学や政治の言葉は使えば使うほど増えている(いやになるほどだ)。では哲学の言葉はどうだろう? 一見、文学や政治と同じく増えまくるだけのようにも感じられる。でも、哲学が正当に機能したら、そうではないのではないか。

つまり、哲学は、本当は、言葉を減らすための営みなのではないか。

実際のところ、ウィトゲンシュタインは「これですべて言い切った、もうあとは言葉はいりません」と一時は本気で思ったのだ。そして「語り得ることは私がすべて語りました。もう語ることはありません。さあみなさん沈黙しましょう」と。


 *


…そういえば、吉田拓郎がライブのみで歌った「都道府県」という長い歌があり、それは「君たちは歌に溺れてませんかあ? 歌が多すぎてアップアップしてませんかあ〜〜」と叫んで終わる。
http://www.youtube.com/watch?v=dv1rYcqccTM
www.youtube.comhttps://www.youtube.com/watch?v=VdOHXLNtg8A


ある時代のロックやフォークは「これが最終回答だ」といった思いで歌を作り歌うというところがあったのではないか。しかし、いやそんなことはできないのだ、なぜならメロディーだって歌詞だってすべては同じものの繰り返しでしかないのだから、と諦めたときから、ポピュラー音楽は成熟の時代を迎えたのかもしれぬ。

すなわち「20世紀のポピュラー音楽たるロックやポップスが急速に発展しつつ急速に煮詰まった」という歴史のこと。

20世紀の現代美術にも「おれが最後の美術表現を示してやろう」「これを目にしたら、もうだれも美術表現などをしたいなどと思わないようなものを作ってやるぞ」といったモチーフがあったのはないか。演劇なら、ゴドーを待ちながら、とか?

まとめていうなら、「これですべて言い切った」「これですべて終わりだ」というのは、つねに若さゆえの幻想ではないのだろうか。

どうしてこんな長いつぶやきになっちまったんでしょう。♪