武満徹作曲賞本選演奏会というのが、わりと近所のオペラシティで開催されるとわかり、聴きに行ってみた。
ふつう思い浮かべる音楽とはおよそ遠いものだろうと予測はしていたが、はるかにとんでもないものが現れて、壮観と言うしかなかった。
数十人のオーケストラが厳かにステージを埋め、指揮者も熱心にタクトを振るのだが、それは旋律というより戦慄、リズムは砕けて飛び散り、和音も壊れて溶けていく、なんかそんなような…
最終候補4作の楽譜がロビーに展示してあった。面白いと思ったのは、「ちょっと何だかわからない」ものなのに、伝統的な演奏者が、伝統的な楽器だけを用いて、その楽譜を忠実になぞりさえすれば、その何かは、強大な音響を伴って、私の目の前にありありと再現されてしまう! ということだった。
つまり、古典的な音楽の様式というのは万能性や普遍性を持つんだなと思ったのだ。
…待てよ、これって何かに似ている……
いかに破格的な思想であれ空想的な思考であれ、言語という一元的な媒介は、とにかく自らの方式だけにしたがって記録してしまうし再生してしまうようにみえる、それと似ている。
ここから自ずと思い出したのは、フレーゲの著作のタイトルが『概念記法』だったということ。私が理解するところ、フレーゲは、私たちがものを考えるときの理屈(つまり論理)を、独自に考案した一連の記号の式だけでことごとく整理整頓しようとした。
ところで、言語はどんな思考も記録し再生するとさっき書いたけれど、私たちが実際に使っている言語の方式(文法とか意味とか)は、実はあいまいでうつろうものであることも、わりと自明とされている。それに比べると、論理というのは(少なくとも骨格の部分は)固定された普遍性を持つだろう。
それで、武満徹作曲賞候補作の楽譜というのが、思考や思想を曖昧ながらも記録再生できる言語に似ているのか、それとも、フレーゲなどが考案してきた厳格な論理の記述法に似ているのか、どっちなんだろうという問いが出てくるのだが、私の知識では話が広がるばかりなので、本日はこれにて終了。