東京永久観光

【2019 輪廻転生】

言語論的回転寿司 (3)


フレーゲの哲学については、以下の一冊が、今なお教科書の位置にあるようだ。

言語哲学大全1論理と言語/飯田隆
 言語哲学大全1 論理と言語

10年ぶりくらいで開いてみることにした。ところが、図書館なら必ずあると思っていたのに、そうでもない。どうにか借りた一冊もすでに書庫にあった。

しかし、やはりこの本は「すべてが凝縮されている」という気がありありとしてくる。この本が完全に読めれば、フレーゲ哲学の何たるかも漏れなく把握できるのだろう。

ただ、記述に冗長さがまったくないと思えるのも、恐るべきところだ。敷かれたレールの上を説明の車輪がただ黙々と進んでいく。ハンドルを1ミリでも右へ切れば確実に曲がる。1秒でも脇見をすれば現在地を見失う。

マグロやハマチの代わりに、DHAEPAの錠剤が皿に乗ってやってくる。

野矢先生の語りは好対照と言っていい。


 *


しかし、哲学は哲学だ。

哲学とは、何が明らかであるのかをむしろ限定する営みだという気がする。

ある1点が何であるかを示すために、その点よりまちがいなく上に線を1本引く。同じように、まちがいなく下に、まちがいなく右に、まちがいなく左に、それぞれ線を1本ずつ引く。そして、「われわれが問うている1点は、少なくともこの4つの線に囲まれた中に必ずある」と言い聞かせる。以後は、4本の線が囲む面積を、ひたすら小さくしていくことだ。(斜めに線を引くなら3本でもいいのか)

こうして、たった1点の座標を明らかにするために、線を何度も何度も引き直す。線で何度も何度も囲み直す。

どれほどたくさんの線が引かれても、どれほどたくさんの説明がなされていても、明らかにしたいのは、その1点だ。

点があっちにもこっちにもあったら、線で限りなく狭く囲んでいくことは、できない。

膨大な表現を費やして、たった1点を目指すのが哲学か。

芸術はどうもそれと反対で、なんでもいいから膨大な面積を囲もうとするところがある。といっても、明瞭な線を引くというより、むしろ輪郭のわからない囲み方。1点を目指すことはあまりなく、むしろ1点も明らかにしないことをあえて目指すようなところもある。


 *


横尾忠則さんのツイッターが面白くて仕方ない。横尾さんはまさに芸術家なのだろう。http://twitter.com/tadanoriyokoo

この世に哲学が本当に好きな人なんて少ないだろうと、みんな思っている。しかし、芸術が本当に好きな人だって、じつはかなり少ないのではないか。横尾さんのような人がゴロゴロしているわけではないことから、そう推測できる。

だけど、多かろうが少なかろうが、芸術が本当に好きな人も、哲学が本当に好きな人も、まちがいなくいるのだろう。だから、人類のうちの誰かは、常に、芸術を成し、哲学を成してきた。

芸術であれ哲学であれ、3度の飯より好きだという人が、割合は小さいとしても、どこかに必ずいるのだ。その事実のほうがわくわくする。そしてまた、どうせなら私も、それらが本当に面白いと感じるようになりたい。

ただ、芸術と哲学は根本的に相反する志向であり両立はしないのかな、とも思う。

「ポチは犬である」という文の意味は何ですか? たとえばこのフレーゲの問いを、横尾さんはマジに面白いと感じるだろうか。そしてずっと議論するだろうか? そんなことより、犬を逆さにした絵でも、とっとと描き始めてしまうのではないか。


ちなみに、フレーゲなら、概念記法によって、いったい何をつぶやくだろう?


 ***


なお、フレーゲが捨て去った「言語」と「観念」を結びつける考え方というものを、野矢先生に教わりながら、私はまったく新たな視点で反論したい気持ちも、じつはふつふつとわいてきた。それについてはこちらにまとめた。http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20100821/p1