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【2019 輪廻転生】

フレーゲ『算術の基礎』を読む(希望)

ゴッドロープ・フレーゲは、数という抽象世界がこの世とは別に実在すると考えていたらしい。独特の「プラトニスト」とも呼ばれる。そんなわけで『算術の基礎』を開いてみようかと思い立つ。

生死の意味を問うとかはもう諦め気分になっているので、違うことを考える。

 

『算術の基礎』たぶんあまり理解できないだろう。しかし、こんな本を開くのは残りの生涯でどう頑張っても5回ぐらいだろう。いや私がいま20歳であったとしても、こんな本を開くのは生涯でどう頑張っても15回ぐらいだろう。

人生は短い。老年者にとって短いが若年者にとっても短い。「数は実在か/どこに存在するんだ?」と考えあぐねるには なおさら短い。それでも「数はどこに存在する?」は一度も問わないとしたら後悔する問いだ。「死んだら終わりだけどそれでいいの?」「この世界はなんで在るんだっけ?」に勝るとも劣らない。お猿にも劣らない。

 

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3月8日

神が存在しないのだとしたら、私たちが神をめぐってどれほど不可解なものを見出しても、それは結局私たち自身の想像の範囲を超えないことになる。一方で、数は存在するのだとしたら、私たちは数をめぐって自身の想像を超える本当に不可解ななにかを見出すこともありえる。(大変なことをぱっと思いついたが、どうだ?)

急に思いついたとはいえ、森田真生『計算する生命』を昨日読み始めたからこそ、急に思いついた。第3章「数がつくった言語」はフレーゲが成し遂げたことについて。私はそれを十分理解していないわけだが、同書はそれを最も正しく美しく伝えているように思われてならない。

 

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3月10日

花粉症で夜中に寝床からティッシュを取りに起き上がったかと思えば、付箋が足りなくてまた起き上がる。読んでいる本は『計算する生命』。今夜は第二章「ユークリッドデカルト、リーマン」。リーマンすごい。リーマンがわかった感じになる私がすごいというより、そう確信させるこの本がすごい。

革命やロシア革命よりリーマンの革命やフレーゲの革命のほうが「すごい」と見るべきではないか。前者は大衆が暴れた。後者は概念が暴れた。「いいね、座布団1枚(ティッシュも1枚)!」

 

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3月14日

というわけで『算術の基礎』(フレーゲ著作集2)を手にした。

緒言はフレーゲの大演説。数「1」が定義できない? 全員たるんでるぞ。俺が今からきっちり定義してやる。覚悟しろ!(意訳)

――ところで日本はフレーゲの全集が読める珍しい国だと聞いたことがある。

 

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3月15日

緒言のなかでフレーゲは、数は論理的に定義すべきだしそうできると断じている。そうではなく数を心理的に定義しようなんてやるからお前らダメなんだ(意訳)と言う。そしてまた、この強い思いは「概念は表象ではない」という原則に言い換えられるようであるのが、実に興味深い。

君たちは皆あやふやな定義で証明とかやってるが、たまたま矛盾が出てないだけだとフレーゲは警告する。

《最後になお建物全体を倒壊させる矛盾に出会うこともあると、本来覚悟していなければならない》。

この語勢も印象的。しかし奇しくもここは晩年のフレーゲ自身の倒壊を予言しているかのようだ。

並読している『計算する生命』(森田真生)は、数を論理で定義しようとしたフレーゲの真に革命的な挑戦と、意外に強烈だった熱情も見逃さず描写していて、面白い。しかもフレーゲは、自身の理論が陥った矛盾を修正できず次の著作を出版した翌年、《妻が四十八歳の若さで亡くなった》そうだ(泣)

 

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3月17日

さて。フレーゲは《数の法則は、思考の法則と最も密接に結びついているのではないか》と書いている。なぜなら、数えるという領域に属するものは《現実的なものだけではなく、また直観可能なものだけでもなく、思考可能な一切のものだからである》

――私が意訳するなら「数は宇宙を超えます!」

大げさにテキトウにつぶやいて、明日の『算術の基礎』を読むモチベーションを高めた。

ともあれ、十分な理解は遠いものの、フレーゲがとらえられたのは結局「数はいったいどこに存在するのか」という奇妙な問いだと思える。もしそうなら私とまったく同じじゃないか。にわかに立ち上る強い共感。

補足ーー 「数はいったいどこに存在するのか」という問いには「数は直観や経験からまったく独立して存在するとしか思えない」という確信が隠れている。人間がいなくても地球がなくても宇宙が生成されなかったとしても、数はどこかにあるんじゃないか。そんな気がしてしまうということ。奇妙だ。

 

https://tokyocat.hatenadiary.jp/entry/2023/04/01/000000 に続く