東京永久観光

【2019 輪廻転生】

ニワトリが先か、ビッグバンが先か?


★幸運な宇宙/ポール・デイヴィス(吉田三知世 訳) asin:4822283518
 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20091106#p1からの続き



●マーティが先か、チャックが先か?

映画『バック・トゥー・ザ・フューチャー』で、マイケル・J・フォックス扮するマーティは1955年にタイムスリップして「ジョニー・B.グッド」 を演奏する。それを聞いたチャック・ベリーは新しい曲を作って発表する。それが「ジョニー・B.グッド」だった。もちろんマーティはそれ以後のどこかでチャック・ベリーが演奏するのを聞いて「ジョニー・B.グッド」を知っていたのだ。SFでおなじみのこの循環は、過去と未来の歴史が一挙に出現するとすれば矛盾はないという。

「宇宙」という楽曲を私たちが作って奏でるとき、似たようなことが起きる…

 
●そんなヘンなことがあるわけがない

「宇宙が認識されることと宇宙が生成されることは同じことなのだ」

この発想は量子力学に依るところが大きい。素粒子レベルの物理現象では、たとえば電子が原子核の周りのどこをどう動いているのか、本来は定まっていない。日常のレベルでも、松井の打ったボールがホームランになるかどうかや、月がどこに出ているのかも、ゲームや夜空を観ている存在がなければ100%は定まっていない。電子やボールや月はだれかに観測されて初めて位置と速度が確定する。ということは、観測された時点でそこに至るまでの過去の経路も遡って確定することになる。つまり、宇宙は認識されて初めてその実体を出現させるのだ。この発想はあまりにも奇妙だ。しかし、そもそも物理の実用計算式である量子力学が解釈としてはあまりにも奇妙な世界を描き出してしまうのだから、仕方ない。これは哲学ではなく科学の話。

さて、この話の核心は二つ。一つは、観測者すなわち人間が宇宙にとって不可欠なものとして浮上すること。もう一つは、因果の順序が宇宙にとって不必要なものとして消失すること。これらのことから、「宇宙の出現→人間の出現→宇宙の出現」という循環がありえることになる。


●そんなヘンなことがあるわけもある

それにしても、こんなキテレツな理論をあえて展開するのは何故だろう。

強い人間原理に立つなら、ゆくゆくは「宇宙は最初から人間を生み出すように出来ていた」と確信することになる。しかし物理学的には、宇宙の種子というべきビッグバンに、宇宙の果実というべき人間の素がセットされていたという証拠はない。植物の種の中に芽や花や実の素が含まれているのとは異なる。だから、宇宙が人間という目的をもっていたという理論は行き詰まる。しかしだからといって、未来に出現する人間が過去に出現した宇宙に影響を与えるという理解もやはり難しい。そこで、「宇宙と人間はどちらが目的でもどちらが先でもない」という発想、すなわち「宇宙と人間は同一の現象である」といったアクロバティックな発想が、求められることになるのだろう。


●人間が先か、宇宙が先か?

ビッグバンがあったというけど、じゃあビッグバンの前には何があったわけ? いくら問うなと言われても、そう問いたくなるのは私だけではない。そのとき、私の生命や意識や知性がビッグバンに先立つわけはないけれど、同じくビッグバンのほうも必ずしも私に先立つわけでもないのだとすれば、それはひとつの答なのだろう。

そうしてこんなことをあれこれ考えているうちに、私もやがて、「人間という現象の総体」と「宇宙という現象の総体」とは「ああ、たしかに一つのイメージとして実感できるかも」という気がしてくるのであった。そうすると以下のくだりもようやく理解できる。

《宇宙は、自らを理解することなしには、自らを創造し説明することなどできないということは、明らかだと思える》(p.437)

著者自身の考察が詳述される「第10章 どうして存在するのか?」にある一節だ。これだけ読むと、何が何を理解するのか、何が何を創造し説明するのか、不明だ。ふつうは、理解や説明をする主体が人間であり、理解や説明をされる対象が宇宙だと考える。ところがここでは「宇宙=人間」なのだから、理解や説明の主体と対象は同一になる。したがって、「人間=宇宙」が「宇宙=人間」を「自己理解」し「自己説明」する、という意味になるはずだ。また「理解」や「説明」はたしかに「創造」と似たことにもなる。

(補足をひとつ。量子力学には多世界解釈コペンハーゲン解釈がある。多宇宙理論はまさに多世界解釈に立つが、ポール・デイヴィスの理論はコペンハーゲン解釈に立つものと言えるだろう)


●数学が先か、物理が先か?

同書は「数学と物理学がひとつのものとして出現する」とも述べるが、これも同じ構図だろう。数学の理論と物理の法則は不可分になる。自然のふるまいがこれほどみごとに数式に適合するという謎もここから解けるだろう。

《科学と数学を通して、わたしたちは自然のドラマを観るだけでなく、これまでのところは部分的でしかないが、筋書きを明らかにし、精妙な数学的法則と原則という形で、自然の隠れたサブテキストを把握し、そして宇宙はどのように一体に保たれていて、ひとつの一貫した系として働くのかについてある程度理解できたのである。したがって、わたしたちの宇宙は自己シミュレーションのみならず、自己理解をも可能にするような法則と状態を持っているのだ。宇宙のルールブックは、生物に好適であり、最終的に意識が出現することを可能にしているという点において、宇宙が自らの意識を確実に構築するようにしてきただけではない。宇宙の計画は、宇宙の計画の理解をも作り上げてきたのである》(p.436)


●物質が先か、情報が先か?

なお、こうした考察は同書を捧げた人物である物理学者ジョン・アーチボルト・ホイーラーの思想が基になっている。《「どうして量子なのか?」と彼は常に問うていた。「物質」と「情報」が別々の概念であることに不満で、彼は「情報から生まれた物質」―情報を担うビットから出現する粒子―という考え方を提案した》(p.14) *「情報から生まれた物質」には「イット・フロム・ビット」とルビがふってある。


●ニワトリが先か、手羽先か?

これらの考え方は「認識論的生成論的実在論」とでも呼ぶべきかもしれない。われ思うゆえに宇宙あり。隣の客はよく鶏食う客だ。

実はこの一連のエントリーにもまだ先がある。そして、未来に書かれるテキストがやがてこのエントリー全体を包み込みこのエントリーの姿を初めて明らかにするだろう。しかしまた、このエントリーは最初から、未来に書かれるべきテキストをすべて生み出すように出来ている(のかも) …ともあれ今日はここまで。まだ1/3程度しか書いていない。しかしこの際、思うところは徐々にでよいのですっかり吐き出しておくことにしたい。