東京永久観光

【2019 輪廻転生】

いつか死ぬという公理系、いつまでも死なないという公理系

https://tokyocat.hatenadiary.jp/entry/2022/10/03/000000

カメは常にウサギより必ず少し先を行くというゼノンのパラドクスは『数学する精神』(中公新書)=上=でほぼ解消した。ところが、仕事が私を追いかけどこまで逃げてもわずかな距離しか保てないという問題は、昨日も今日も明日も続く。

土日は休息。というか仕事のほうが眠っていて追いかけてこないので、私も逃げなくてよく、余裕で先に行ってもよい。

それでもいつか距離はじわじわ縮まって、ついには追いつかれ、仕事に尻をかぶりと噛まれる。でもそれはたいてい締め切りの日だ。似たような仕事を何十年もしているが、いつもぎりぎりで逃げ切っている。そのぶん心と体はずいぶん痛めつけられてきたのだろう。

若いころは思いもよらなかった死というやつが、だまって後ろを着いてきていることも、いずれかの年齢で意識するようになる。今はまだ影のようなものでしかない。しかし距離は縮まってくる。逃げ切れる人はいない。とはいえ、追いつかれたときが最後だが、最後まで追いつかれない、とも言える。

カメがウサギに追いつかれないという考えは間違いで、距離の差がゼロになる時は必ずやってくる。それでもカメとウサギの距離が無限に細かく刻んでいけるなら、いつまでも追いつかれない感じもしてくる。

生というものも、たとえ80歳になろうが90歳になろうが、まだ細かく刻みながらちょっとだけ先に行ける感じはいつまでも続くのかも。しかも、いよいよという時にはすべてが終わるのだから、死に追いつかれた=ああこれが死かという感じを知ることも、ないはずだ。カメはいつまでも逃げられる。

つまり―― 死んでしまえばまったく何もない。「なにかがある」ということは絶対ありえない。一方、生きていれば必ず何かがある。「まったくなにもない」ということは絶対ありえない。――ということかもしれない。

「生きているうちは絶対死なない」とも言える。同じく「死んでしまえば絶対生きていない」とも言える。一方だけを踏まえて「死んでしまう」「いつか死んでしまう」と悩むのもいいが、もう一方を踏まえて「生きている」「生きてしかいない」と思い続けるのもアリかもしれない。(荒川修作「人間は死なない」!)

最初の数学の話になぞらえれば、「オレは生きる」と思うか「オレは死ぬ」と思うか、それは公理系の違いのようなものだろう。平行線が交わるか交わらないかは公理系によって変わる。「生きる」を公理とするか「死ぬ」を公理とするかも、実はどちらも可能で、証明できる定理もそれぞれ異なる。

 

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ではリツイートを際限なく繰り返すことはできないか? この問い(下)も数学ではなく物理学の問いか?

https://twitter.com/kikumaco/status/1578337922759417857

冒頭に書いた「仕事がどうとか、生きるとか死ぬとか」の話も、私のぼんやりした理解では、実数論だ(つまり実数って何? ホントにあるといえるの? ということ)

どういうことか―― 数直線を思い描いたとき、1と2の点の間や2と3の点の間には空白があるけれど、そうした空白はすべて何らかの数が埋めることができて隙間はまったくない、という想定をしたとき、その隙間を埋める数が実数(有理数無理数)ということになろう。

実数(のうち無理数)は、小数点以下がランダムどこまでも終わりなく続く、というわりとクリアなイメージなので、「そうか実数ってあるね」という気分になる。しかし、この世の実際の姿はそうではない=どこまでも細かくはならない・実数は実在しない=という主張だと思われる。

このテーマでは、デイヴィッド・ドイッチュが『無限の始まり』で《計算や証明は物理プロセスだ》と書いていたのを、ぼんやりではなくはっきり思い出す。「物理学と数学とは違う」にとどまらず「数学は物理学を超えない」という強い主張かもしれないから。
https://tokyocat.hatenadiary.jp/entry/2022/01/11/232858

しかしさらに言うなら、それでも私たちは無限というものを理解できる(気がする)。少なくとも無限を定義できる。宇宙に実在しないかもしれないものを私たちが自在に思い描けるというのは、どういうことだろう? それこそが数学? 数学は宇宙を超えたイデアなのか?

 

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関連として―― 

私の乏しい知識によるが、プランク定数というのがある。「この世の極微の姿は実はどこまでも細かくはならない、この値までです」という値がそれだと思われる。しかも距離も時間も。どちらももうこれ以上短くならないという限界があるのだと言う。