東京永久観光

【2019 輪廻転生】

死とは、かぎりなく少ししかわからないのか、まったくわからないのか、どっちだろう?



死ぬ話をもうひとつ。


物理学者の戸塚洋二という人がしばらく前にガンで亡くなった。戸塚さんは闘病のために現役を退き、以後ずっとブログを書いていたという。それをまとめた本が出た。


戸塚さんの名は、池田晶子が『2001年哲学の旅』という本で対談している相手の一人として知った。池田さんは「生きるとはなんぞや」と直球を戸塚さんに投げるので、おおっと思いながら目を通したのを思い出す。


そのとき戸塚さんは、きっぱり「それは物理学の範疇ではありません」という主旨のことを答えている。それがかえって印象に残った。


対照的に、生の意味を開けっぴろげに問い続けた池田さんだが、ご存じのとおり彼女もまた同じくガンで逝った。46歳。そのとき私は短い感想をブログに書いた。


http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20070311#p1(だいぶ下のほう)


戸塚は自分が生きていることの不思議をどう思うか池田から尋ねられ、たしか、そういうことは考えません、それは池田さんの領域でしょう、とだけさらっと答えていたのが、なんだかすがすがしく感じられた。物理学が解明しようとする宇宙の法則は、個人の生死の意味といったこととはまったく別個のことなんですよ、といったニュアンス。池田はあまりの意外さに驚きやいささか動揺も覚えたようにみえた。私も同感だった。(本が手元になく以上はすべて不正確引用)」


しかし私はこんなことも書いていたのだった!


戸塚さんは生き死にが研究テーマではないものの、かりに自分に亡くなる局面が訪れたとき、そのときだけはやっぱり自らの知を総動員して生死の意味を問うだろうか


戸塚洋二という物理学者が死んだとの報が、なんとなく心に引っかかっていたのは、これがあったからだと思う。


その戸塚さんのブログは今もそのままだという。まさにその問題に直面してこの人はなにか考えただろうか。強い関心をもってアクセスしてみた。


http://fewmonths.exblog.jp/


「宇宙がわからなくて不思議だね」いう気持ちと、「死んだらどうなるかわからなくて不思議だね」という気持ち。両者はどこかで重なるのだと、私はぼんやり思っている。もうちょっと発展させると、「宇宙のどこかに我々以外の知的存在はあるのだろうか」という不思議にも重なってくる。戸塚さんも結局似たような気持ちを抱いていたんじゃないか。おこがましいけれど本当にそう感じてしまった。


ブログはまだ少ししか読んでいないが、一つ一つとても共感できるものとして胸に飛び込んでくる。たとえば戸塚さんは、以下のような考えをつらつらと明かしてくれているのだ。


確かに科学は、人間の脳によってなされた自然界の抽象化にほかなりません。しかし、得られた科学は、決して人間固有な特殊化されたものではなく普遍的なもので、人間ではない他の星に住む生物にとっても理解可能な論理なのです》(http://fewmonths.exblog.jp/8222015/


《・人間と同じ目や耳を持った高度文明を有する生命体が宇宙にいるとは思いません。これには同意します。ただし、光はわが宇宙でもっとも情報伝達に適したものなので、光を使わない高度文明を持つ生命体は、ちょっと想像できないことも確かです。
高度な観測手段を持たない生命体は高度文明を築くことは出来なかったと思います。
彼らが高度文明を得る過程で、必ず周囲および宇宙を観測する手段を手に入れたに違いがありません。その手段が、光を使おうがニュートリノを使おうが重力波を使おうが、それは本質的なことではありません。問題は、それらの観測手段を駆使して、得られた観測事実を抽象化し体系化して知識にしていったはずだということです。
我々は、宇宙の精密観測によって、1億光年彼方にある原子も地上にある原子と同じものだということを知っています。つまり、われわれの宇宙は、時間経過の違いを考慮すれば、一様で等方的かつ同じ法則の支配する世界です。
1億光年離れたところにいる高度文明を持った生命体も、同じ宇宙とそれを支配している法則を理解しているはずです。
「われわれの住む宇宙は何年前に生まれたのですか」という質問に対して、我々も彼方の生命体もまったく同じ答えを出すはずです。
また、「宇宙に最も多くある元素は何か」という問いには、1個の陽子の周りを電子が1個回っている構造体だ(元素や陽子や電子の名前は違うでしょうが)という答えで一致するはずでしょう》(http://fewmonths.exblog.jp/8268750/


われわれは日常の生活を送る際、自分の人生に限りがある、などということを考えることはめったにありません。稀にですが、布団の中に入って眠りに着く前、突如、
自分の命が消滅した後でも世界は何事もなく進んでいく、
自分が存在したことは、この時間とともに進む世界で何の痕跡も残さずに消えていく、
自分が消滅した後の世界を垣間見ることは絶対に出来ない、
ということに気づき、慄然とすることがあります。
 個体の死が恐ろしいのは、生物学的な生存本能があるからである、といくら割り切っても、死が恐ろしいことに変わりがありません。
 お前の命は、誤差は大きいが平均値をとると後1.5年くらいか、と言われたとき、最初はそんなもんかとあまり実感が湧きません。しかし、布団の中に入って眠りに着く前、突如その恐ろしさが身にしみてきて、思わず起き上がることがあります。上に挙げたことが大きな理由です。
 上の理由を卑近な言葉で置き換えると「俺の葬式を見ることは絶対出来ないんだ」ということになりますか。こんなバカなことを皆さんお考えにならないでしょう。しかし、残りの人生が1,2年になると、このような変な思いがよく浮かんできます》(http://fewmonths.exblog.jp/8199366/


死んだらどうなるのか。まったく何も無いとはどういうことなのか。その決定的な不思議を、それでも最大限にうなずける言葉にまで翻訳できるのは、かつてはソクラテスやカントだったのかもしれないが、現代ではやっぱり宇宙や物理の探究者なのではないか。対談時の戸塚さんの回答とは裏腹に、私はおもう。


それにしても、戸塚さんが書き残したブログに、ある夜こうしてどこかの見知らぬ誰かがそっとアクセスし、今しもその思考に触れ、こんなふうに溜息をつく。


この宇宙が、偶然か必然かはともかく、こうして存在してくれたことで、少なくともその程度の幸いは生じたのだ。そう思う。ただ私のこの言葉も、戸塚さんが知ることは、やっぱりもうかなわないのだろう。


がんと闘った科学者の記録/戸塚洋二 asin:4163709002



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ちなみに、戸塚さんはノーベル賞を受けた小柴昌俊さんの弟子に当たる。ブログには小柴さんのことも出てくる。以下のくだりが可笑しかった。


博士論文の英語の添削も厳しいものでした。私が書きなぐった草稿を秘書さんが3スペースでタイプします。それを小柴先生が目を通して、文字通り真っ赤に朱が入って戻ってきます。修正した原稿を再び3スペースでタイプしてもらいます。驚くじゃないですか、先生が真っ赤に直した部分が再び真っ赤になってくるじゃないですか。こんなことが何回も続き、ついに見事な英語の博士論文が完成しました》(http://fewmonths.exblog.jp/8903915/



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ところで、戸塚さんが上記引用で読みふけっていた『犀の角たち』という本。佐々木閑という仏教学者が書いたもの。どんな本なんだろうと思いさっそく読んでみた。それについては次回。