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【2019 輪廻転生】

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カードを使った発想法=KJ法をあみだした川喜田二郎さんが死去。ということで、ちょっとネットをみてみた。


KJ法は、論文を書く前に自分の考えを整理するためのメソッドということだ。だいたい以下の要領。カードをたくさん用意する。論文に盛り込むべき多数の要素をカード1枚ごとに記していく。カードをすべて見渡せるように置き自在に並べ替えていく。すなわち、似たものをまとめ、たがいの関係を線で示し、どんな順序でつながるかを見きわめる。


■KJ法も結局は…


ここではっと気づいた。テーブルに並んだカードどうしの関係やまとまりの階層がどれほど複雑であっても、最終的には1次元に並べ換えることになる。なぜなら文章とはそういう形式の出力だからだ。単純な例として、要素A・B・Cがどれも同じく重要でしかも同じ相互関係でつながっていたとする。その場合、ABCはたとえば三角形に配置して一挙に示すほうが写実的だ。図ならそれができる。しかし文にはできない。どうしても「A→B→C」や「B→A→C」などの線で示すしかない。しかもそれは1本かつ1方向の線だ。我々は2つの文を同時に読むことはしない。また文には始めと終わりがあって逆にはならない。


ちなみに文章だけでなく音楽や映画もこの形式だ。だから時間をかけて処理(鑑賞)するしかない。毎夜思い知るとおり。コンピュータがプログラムを読むのもシリアルだ(たしか)。それどころかDNAの配列がタンパク質に翻訳されるのもシリアルだ(たぶん)。地下鉄を降りどの出口に向かうとよいか考えるとき、地図を見る人は2次元的、表示された矢印にすがる人は1次元的?


■文章はなぜ1次元?


そもそも文章はなぜ1本かつ1方向なのだろう。


言語は音声から始まったとして、音は時間に沿うので方向があって当然だし、しかも耳が音を記号として受け取るには1音ずつでないと都合が悪かった、といったことが根本にあるのだろう。(追記:そもそも口が音を発するのが1音ずつだ)


言語がやがて文字になった時はどうだったのか。


音声の形式がそのまま踏襲されたのだろうか。そうかもしれない。あるいは、文字は文字で、多くのものごとを表すのにどんどん重ねて刻んだりはできないという都合もあっただろう。


方向性はどうか。簡単な記録なら「左から右へ読め」「上から下へ読め」と定めなくてもよさそうだ。スーパーの買い物メモでも「豚肉、ニンジン、タケノコ、酢、かたくり粉、パイナップル」の順序はあまり関係ない(むしろ全部一緒に見たほうが何を作りたいかわかるというもの!)。ただ、そこになんらか因果や論理をつきとめようとすれば方向性も出てきたのだろう。あるいは、歴史や物語といったものには始まりや終わりがあるから、たとえばそれを文章によって把握するには一方向に進むことにある。


ただ実は、情報自体はいくら多量になっても必ず方向を伴うとはかぎらないのではないか、ということもふと思う。


■2次元の言語、3次元の文房具?


というわけで、可能性としては、少なくとも2次元的つまり粘土板やパピルス紙に文字を平面として自在に広げていくような使い方があってもよかったのではないか。そう、あたかもテーブルにカードを並べていくがごとく。


いや、2次元どころか3次元や4次元でもいいじゃないかと思いたくなる。この世の物事は本来きわめて多角的に存在している。甘いか甘くないか。酸っぱいか酸っぱくないか。辛いか辛くないか。苦いか苦くないか。ほらこれだけでもう4次元だ(パイナップルのことではない)


ただ、悲しいかな我々は空間を3次元までしか活用できない。重力のしばりもある。ノートブックはやはり2次元くらいが適当なのだろう。(なお巻紙や短冊は1次元だが、これは文章の1次元をそのまま反映しているのか。それゆえ七夕の願いごとも1次元)


資源や技術による制限もあるだろうか。「インクを紙にひたす」という方法が普及した結果、書物は2次元にとどまっているが、なにかこう空間に広がっていく特殊な媒体が発明され、そこに特殊なペンで文字を書いていくことができるなら…。我々の発想も1ランク飛躍するかもしれない。プレゼンのパワーポイントが余計ややこしくなって「もう勘弁してくれ」と泣く人もいるか…。スペースシャトル内で人類の英知は宙返りしたり四股を踏んだりもできるわけだが、無重力空間を生かして3次元のKJ法もぜひ試みていただきたい。


■人間の思考は何次元?


さてさて、そもそも人間の思考は1次元なのか。最大の関心はやはりこうしたところにある。


現在の我々は自分の思考を言語として集約したり伝達したりすることが多い。その場合、言語はたいてい1次元(1本かつ1方向)の記号列として書かれ読まれ話され聞かれる。


しかし、自分がなにかを考えたり感じたりしているとき、それは常に1本道を1方向に進んでいるわけではない。むしろテーブル上を行き交う無数のカード、あるいは風に乗って舞い上がる無数のカードみたいなものに思われる。ただ最終的には1次元の記号列である言語として外に出る。そのほうがなにかと都合がよいというわけだ。


なぜ1次元の言語は都合がよいのだろう。少し述べたように、人間の身体や社会の都合、因果や論理や物語といったものごとを把握する枠組みの都合、技術的な都合などが思いつく。しかしひょっとして、「言語自体に1次元でなければならない事情」があるということはないのだろうか。


■ふたたび、人間の言語はなぜ1次元?


もしも「言語自体に1次元でなければならない事情」があるとしたら、いったいどのような事情だろう。チョムスキー以来 探究されてきた「人間の思考や言語のなかに普遍に存在する文法」においては、言語は必ず1本だけで2本3本同時に進むことがない理由や、言語がどちらから読んでもかまわないわけではない理由は、なんらか検討されているのだろうか。


(もっと具体的な日本語や英語においてなら、少なくともたとえば「主語・動詞・目的語」などの順序は決まっている。これは必ずしも表現されている現象の順序というわけではないので、人間がものごとを把握する認知上の都合か、そうでなければ、なんらか言語の都合ということになろう)


人間の側にも言語の側にも1次元であるべき理由がないなら、先に述べたとおり、平面や空間に広がって展開する多次元の言語などが誕生してもよかったことになる。ただそれは芸術の表現に近いようにもみえる。全体を眺めるものだったり、意味が特定されなかったりと。しかし一方、現在の言語とは完全に異質な文法によって制御され、現在よりはるかに緻密で多彩な表現のできる言語が、成立する可能性もあるのではないか。


■脳は多次元、意識は1次元?


なお、脳においては多数の神経ネットワークが並列分散して動いていることは間違いない。ただ意識という断面では、なぜか1次元の流れだけが浮上してくる。


ちょっと疲れたので終了。ここまでの思いつきをすべてカードに記して並べ換えて書き直す、のはけっこう面倒くさい。