たとえば「増税なんかするな、国債を増やせよ、バカ」というツイートが100あり、「国債なんか増やすな、増税しろよ、アホ」というツイートが101あった場合、プラスマイナスで相殺され「国債より増税」のツイート1つだけがタイムラインに流れる。――といった仕組みにしてくれないものか。なんかこう「場の量子論」的な・・・
『ホーキング、宇宙と人間を語る』をまた読んでいるので、こんなことを書いている。
――ツイートは誰かに観測されて初めてその主張の方向と強度が確定する。観測されないツイートは方向も強度も漠然とした雲のような状態でネット場をただよっている――
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《私たちはどのようにして、この世界を理解できるのでしょうか? この世界はどのような存在なのでしょうか。そもそも存在とはいったい何なのでしょうか? また、すべての存在はどこから来たのでしょうか? この世界は創造主を必要とするのでしょうか?》
同書は冒頭でこう問いかける。そしてすぐこう書く。
《私たちはこれらの疑問を解こうとして自分の時間を費やしてしまうことはありませんが》
いや、そうではない。この問いをめぐって自分の時間を費やしてしまって全然かまわないという人はそれほど少なくもないように思う。
ただそのような人が物理学をやっているかというと、そうとはかぎらず、宗教や哲学など他のいろいろなことをやっているケースも多いと思う。
それでも、この問いに現在答えうるのは物理学なのか?
物理学がそれに完全に答えることはできないんじゃないかとも思うのだが、それでも、本の冒頭からこんな大それた問いを掲げる学問が現在他にあるかというと、ないのかもしれない。
ほかには、リチャード・ドーキンスが「われわれ自身が存在しているのはなぜか?」「それはもはや謎ではない」「ダーウィンとウォレスがその謎を解いた」と書いていたのを思い出す。(盲目の時計職人)
われわれは昔サルみたいなものだった、という答がわかったからといって、存在の謎が解けたと言えるのかというと、そうでもないように思うが、しかし、実は謎のかなりの部分は解けたという見方は可能で、そう見ることがむしろ重要とも思える。
それと同じように、原子や電子がうまく説明できるとか宇宙の始まりがうまく説明できるということは、遺伝子がどういうものかが説明できる程度には「存在の謎」を解くことを意味するのだ。
とはいえ、物理学と生物学(その中間の化学も含めて)に任せれば、存在の謎はすっかり解消するのかというと、そうではない。
案外(案外でもないかもしれないが)、意識とか知能とかそうしたことの核心がつかめないと、存在することの意味も、それ以前に定義すらもやっぱりわからない気がする。
そして存在することの定義とか言い出すと、やっぱりそれは哲学の担当になってくる気がする。ただ先の本では「現代において哲学は死んでしまっているのではないでしょうか」とも書いている。
どうなんだろう。大昔、アリストテレスとかデカルトとかという人たちは哲学者であると同時に科学者でもあったようなので、現在はその類の哲学者がいないということが言いたいのだろうか(同書はアリストテレスには批判的だが)。では物理学者は本当に哲学も含めてまるごと担当してくれているのだろうか?
朝っぱらから話が壮大だ。終了。
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『ホーキング、宇宙と人間を語る』は、過去のホーキング本に比べると非常に読みやすく、また素朴な疑問=それはすなわち根源的な疑問(存在の謎、的な)なのだが、そこを常に照らすような展開をしている本なので、非常に素晴らしい一冊だと私は思う。
といっても、この本、本当にホーキングさんが書いたのかという疑問はある。書いたというか打ったというか(いや、今、ホーキングさんは自分の考えをどのように外に出力しているのだろう?)
共著者としてレナード・ムロディナウという人の名が記してある。実質的にはこの人が書いたのかもしれない。この人は昔『ユークリッドの窓』という本を書いていて、私としてはメルクマール的な一冊だったように思う。
佐藤勝彦さんの訳が日本語としてのツボをついているところも大きく貢献しているのだろう。
(参考)レナード・ムロディナウ『ユークリッドの窓』の感想は昔こちらに書いた。
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20031019/p1