東京永久観光

【2019 輪廻転生】

希有な人



自死という生き方/須原一秀 asin:4575299987


老いや病のなかで受動的に死ぬのではなく、健やかなうちに能動的に死ぬべきだ。著者はそう考え、そのとおり自らの命を絶った。その思索と実践の記録がこの一冊。


なにか強引な理屈や激しい感情の文言が迫ってくるのかというと、その予測は完全に裏切られる。恨みや怒りを持てあましたとか、憂鬱や孤独に耐えきれなかったとか、そうした理由でもない。まったく逆。人生を味わい尽くしたという冷静な納得こそが、死への踏み台になっている。不思議なことだが、この点が最も際だっている。


ソクラテス三島由紀夫伊丹十三の名を先人として挙げている。著者と同様の熟慮によって自死したにちがいないと分析しているのだ。ここで印象的なのは伊丹十三の弁。


私は、ですね、一と言でいうなら「幸福な男」なんです。然り。私は幸福である」。そして正月に近所のみかん畑を見ながら家族で歩いているときの幸福感をこう形容する。「もう、なにやら、こう、大きなね、光輝く金のオニギリをね、もうぱくぱく食べている感じね」(『伊丹十三の本』より引用とのこと)


こうした平凡だが至上の幸福感に著者は大いに共感する。その実感を伝えることが同書前半の焦点にもなっている。そして、その幸福の極みが自動的に転じたあかつきに、自死への願望と覚悟はじつにあっさり浮上する、ということなのだ。


もともと明るくて陽気な人間が、非常にサバサバした気持ちで、平常心のまま、暗さの影も異常性も無く、つまり人生を肯定したまま、しかも非常にわかりやすい理由によって、決行される自死行為がある


要するに自死を決行する人は、「人生に対する未練」を断ち切ったのではなく、人生を気にしなくなったのであり、「死に対する恐怖」は克服したのではなく、それも気にならなくなったのである。そして、どうして気にならなくなったのかと言えば、頭ではなく体の方が死にたくなってしまったからであり、それも「体」が「死」を快く受け入れてしまったせいで、それ以外のことには関心が無くなったからである。それが答であり、「未練・苦痛・死そのもの・死後」が怖くない理由なのである


つけ加えるほどではないが、「なぜ望むとおりに死ねないのか」という著者の問いかけは、「なぜ望むとおりに生きられないのか」と対を成しているとも言える。


それにしても、自死する直接の理由とは要するに「病苦」や「老醜」のおぞましさだ。我々はふだん「なぜ死んだのだ」と深刻に複雑に考えようとするが、それはこの理由があまりに単純で救いがないからかもしれない。しかしこの本はこの答の正しさを直視する。


まず引用するのは、ヌーランドという医師が書いた『人間らしい死に方』。9千人の患者を看取った経験からは、尊厳のある自然死など現実にはほとんど望めず、肉体的精神的に耐え難い苦しみを経由しなければ死は訪れない。その事実を指摘しているという。もうひとつ重大な参照項は、ターミナルケアの先駆者として有名なキューブラー=ロス。キリスト教徒として「自然に死ぬまで生きなければならない」と大勢の人々の最期を励ましてきた。ところが当人もまた脳梗塞に倒れる。その晩年を記録したドキュメンタリー映像によれば、自然死の受け入れが実はあまりにも難しいことを彼女自身が思い知る。天国に召されるのが遅いことで神を呪いまでしたらしい。


これらを根拠に著者は断じる。《自分にとっても、家族にとっても、あるいは社会にとっても、ほとんどのケースで意味のない年月が晩年に待っているのである》と。


この実状を見て見ぬ振りの立場については――《結局は「死についてあまり深刻に考えない」という態度を保持しつつ、なし崩しに老化の過程を辿り、結局は老化と業病と自然死へと受動的になだれ込む生き方には「受動的自然死派」という名前を付けたい


さらに、ここで合わせて確認すべきは、著者は「人生すべてが生きるに値しない」とみているのではないことだ。


彼らの人生の一部分である「老境」を否定したとしても、そしてまた「自然死」ではなく「人工死」を選択したとしても、人生そのものを否定したわけではない


むしろ、「どんな形であれ、生きていることそのものに価値がある」などと主張する方が屈折した虚無主義であるということになる。それは人間の素直な感覚でも、現実の世界で実戦可能な考え方でもないからである。そしてこの種の人々は、「老醜」を嫌っただけでも、あるいは「人工死」を選択しただけでも、虚無主義だと言いたがるのである


そして著者は2006年4月に自死した。「雑感と日常」と題する終章は、直前の一年足らずの間に日記風に書かれたもの。ここでも驚くのは、その飄々とした語り口だ。特に拍子抜けした部分を少し紹介しよう。


二〇〇五年八月一三日に、自死を決行することを一人の友人に告げた。彼は「須原さんさびしいなあ!」と言いながらも、真っ直ぐに私の思いを受け止めてくれた


女房があちらの部屋で楽しそうに鼻歌を歌っているのが聞こえる、家族に対する執着や、悪いなーという気持ちは確かにあるのだが、大事の前の小事であるような気がしている》…(2005年9月20日


十一月頃から十二月に入って来て、この本を書くのが面白くなって来た。そして、文章をつづるのが面白くなってきた。今は文章を書くための時間があまり無いことに少しあせりを感じている


最終講義の感想 《それにしても、これきりで大学で講義をすることも無くなってしまったわけだから、何か感傷的なものがあるかと思ったが、それらしきものは本当に何もなかった》(2006年1月02日)


私は本当に先のことをしっかりと考えない人間かもしれない。と言うのも、二月の半ばになって、今年の二月は二十八日しかないことに気付いてあわててしまった。本書の仕上げにあせってもいたからであるが、そのことに関して友人に「俺の人生も短いなあー」と電話で嘆いたら、笑われてしまった》(2月16日)


 *


いくつか私の感想なども。


(1)


これを書いた人は本当に自死したのだ、というスキャンダラスさにひかれたところはあるものの、「自死の是非」という重大問題に真正面からぶつかることにはなるだろう、と思って読み始めた。実際それはそうだったが、それ以上に考えさせられたのは、じつはというか、やはりというか、そもそも「自然死の是非」だった。


病死に代表される通常の死がどれほど苦痛なのか。その議論や研究は万人にとって不可欠かつ有益だと思えるのに、あまりに放っておかれている。これはヘンだ。尊厳と安楽を保って死ぬためには実際どんな技術が要るのだろう。人類の偉大な知恵を費やすのは、電化製品のエコポイントだとか、ハイブリッド車の燃費だとか、そんなみみっちい計算だけでなくていい。


死は観念的ではなく実践的な問題である。この本が一番気づかせてくれたのは、やや意外にも、そのことなのだ。


では、再び同書からの鋭い追究。


人間は自然界で唯一「自らの死」を思慮する動物である。しかも、「病気」や「災害」を自然からの暴力として、それらを何とか制御できる範囲内におさめようとしてきたし、かなりおさめることにも成功してきた。そして結局、現代人は全くの人工的居住空間で生活しつつ、ほとんどの「自然」を公園か動物園レベルにまで調整してしまったのである。しかし、なぜ最大の自然の暴威である「死」だけは制御することに躊躇するのだろうか


いやまったくもっともだ。


将来は変わるだろうとも著者は予測する。


医療の発達と安楽死容認の世界的傾向を見ても、自然死ではなく人工死を求めるのは未来の人類の普通の傾向となるはずである


さあどうなるのだろう。


もちろん、人類は、自然死についても人工死についても今と違って十分に考えた末に、それでもやっぱり「人工死よりは自然死のほうがマシだね」という結論を選ぶかもしれない。それどころか、「死はけっきょく超えがたい難問なので、自然死についても人工死についても、もうあれこれ考えるのはやめましょう」という結論すら選ぶかもしれない。それでも、「人工死(自死)が当たり前」という時代が来ることもまた、同程度にはありうる気がする。


(2)


私は平均寿命の半ばも過ぎ、人生はそう長いものではないと実感するようになった。そうすると、80歳でも90歳でも足りない。いつか必ず死んでしまうという事実そのものが、実をいうと受容しがたい。


もちろん、頭がほとんどはたらかなくなったり、体がひどくつらいだけだったりする日々も、ぜひとも避けたいと願う。


まあ、これくらいは、誰でも考えるだろう。もっと徹底的に考えたときにどうなるかだ。著者のように本気で自死を決断するかもしれないし、やっぱり迷ったまま何もできないかもしれない。自分がいかなる境地に達するのか、じつは想像つかない。結局まだまだ他人事なのだろう。


(3)


死は誰にも必ずやってくる。それを忘れるな。…とは案外けっこう聞かされる。では、私たちは本当にそれを忘れて暮らしているのか。完全に忘れてもいないから生命保険に入ったりするのか。


仕事の期限が数日後とわかっていても、なんとかなる気がしてまだ手を付けていない、そんな状態には近いのだろうか。死という締め切りも数十年後には確実にやってくるわけだが。


(4)


ちょっと話はねじれていくが、自殺の明らかな「原因・動機」のうち最も多いのは「健康問題」であることをご存じだろうか。恋に破れて死ぬ青年より、借金をかかえて死ぬ中年より、病気に悩んで死ぬ老年のほうが多い。(警察庁の資料による http://www.npa.go.jp/toukei/index.htm なお「健康問題」の内訳では「うつ病」関連が最多)


(5)


著者の自死はたしかに厭世的でも虚無的でもなかった。ということはしかし、厭世や虚無から行われる自死については、同書は思考していないということだ。つまり、おそらく多くの場合の自死に関しては、考察はむしろ手つかずで残っている。


(6)


ブログのエントリーにはタグというものを付ける。私なら「旅行」とか「ネット」とか「言語」とか。タグには自分の主たる関心事が現れていると言える。


自死」というタグを使っている人はいるだろうか。「経済」や「環境」が無視できないように、「自死」や「病苦」も無視できない。


(7)


自死を遂げるのに家族や友人や同僚といった共同体の支えは大切だ、という事実に著者は行き当たっている。一見意外だ。一般には諸々のしがらみから離脱したくて自死するということが大いにありそうなので。しかし、著者は「幸福に生きたのと同じくらい幸福に死んだ」と評することができるのであり、どちらの幸福も、たしかに共同体とのかかわりを抜きにしては成立しないということは、読んでいてよく理解できる。


それを踏まえてさらに…。


この本は浅羽通明が導入の長い文を書いている。そのなかで浅羽は、共同体が人工死を支えるように、共同体は自然死をも支えてくれるのではないか、と問うている。


筆者がふと思うに、孤独な自死決行のつらさを軽減するような仲間であるならば、他のつらさをもまた軽減できるのではないでしょうか
それは、須原氏がヌーランドほかを根拠に強調した、自然死へ向かう苦痛です。自死を選ばぬ者皆が、同じように苦しむ。それがわかれば、誰もかれもが辿る道と思い定めてある程度までは絶えられる(あくまで、ある程度までは、です。延命治療が現在、増幅させている苦痛については、モルヒネ使用への寛容化など考えるべき問題は多いでしょう)
そして実際、家族や友人などの老人仲間は、そのための共同体としてこれまで機能してきたのではないか


これはこれで本当にその通りだとうなずく。


ただ、浅羽のイメージする共同体は、やっぱり、自然死を望む共同体ではあっても、自死を許容するような共同体ではないようにも思える。そうすると、須原一秀がそのなかで生き、そのなかで死んだ共同体というのは、私たちにとってありえないほどの理想的な共同体なのかもしれない。


(8)


私はこれまで、須原さんのような考えの人に会ったことはない。少なくとも直接そうした意見を聞いたことは一度もなかった。ところが。


http://d.hatena.ne.jp/michiaki/20090621/1245594625


この「いささかマシな死に様」というエントリーがアップされたのは、ちょうどこの本を読んでいる時だったので、驚いた。


michiakiさんは、須原さんに似た実感を抱いている希有な人ではないか。以前もこのテーマのエントリーがあったと記憶する。トリッキーにみえても、須原さんと同じくただ正直な気持ちを書いているのだろう。