〜ポール・デイヴィス『生命の誕生』『生物の中の悪魔』をめぐって〜
https://tokyocat.hatenadiary.jp/entry/2021/07/28/000000 から続く
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景気づけに大仰なことを1つ書く――
宇宙に目的や意味といったものはいついかに生じたか? ダニエル・デネットや戸田山和久はある種の動物や人間の認知に伴ってだと見ていたと思うが、ポール・デイヴィスは、核酸からアミノ酸への転換(まさに生命の誕生)にこそ、その瞬間を見る!
DNAの情報をよく眺めてみれば、核酸の段階では4文字記号の無作為で規則性のない配列にすぎないが、それがアミノ酸さらにはタンパク質に翻訳されるなかで、きわめて精巧な組み立ての暗号だったことが、初めてわかる、すなわち意味が生じてくるではないか。ポール・デイヴィスはそこを指摘する。
この視点では、生命が奇跡ならそれは「情報の奇跡」だということになる。核酸の意味のない情報が生命の意味のある情報に転換されたという奇跡(ただし著者は奇跡ではなくそこには法則があるはずだという立場)
これは言い換えれば、生命は情報の保管庫であるだけでなくソフトウェアであり計算機であるということ。たとえば星や山や海がもつ情報と、細胞が保管し使用する情報とではステージがまるきり異なるのだ。
では生命における情報のステージアップはいかにして可能だったのか。生命のソフトウェアたりうるほどの情報は、そもそもどこから来たのか? ポール・デイヴィスは、生命を生じさせた環境すなわち「宇宙そのものから来たに決まっているだろう」と確信する。
すなわち「生命の誕生は宇宙の必然なり」という主張だろう。ただしその必然は現在の物理学の法則では説明できない。では神学に頼るのか? ポール・デイヴィスはもちろん違う。現在の物理学を超えた物理学を見出そうという野心的な(無謀な?)企てが、そこから始まる。
ここで内心思っていることを一言。「私自身は、どちらかというと、宇宙や生命の物理学ではなく、宇宙や生命の神学を、知りたいのかもしれない…」
とはいえその神学を、たとえばタリバンの神学とかオウムの神学にはまったく期待しない。ひょっとしてスコラの神学なら? などと思う。デカルトやニュートンの哲学や科学もそこから派生したのだろうし、現代の物理学も実はそこに通じていると思える。神学か物理学かは呼称の違いにすぎないか。
ただし、いわゆる神はいない。だから、たとえばコロナの行方もわからない。君や彼や私が幸いにも助かったとしたら、それは神が助けてくれたからではない。なんらかの社会の仕組みやなんらかの人間の行動が助けてくれたからだ。
この1年余りコロナのことばかり頭にあるから何を考えてもコロナの話になってしまった。しかしついでにまた大仰に言うなら―― ウイルスは生命とは異なる生存戦略を持つ。これって情報戦略の革命でもあるんじゃないか?(ただそれが生命のエレガントな複雑さへのタダ乗りに過ぎないことは否めない)
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(関連)
生活に追われて知と戯れる無駄な時間など無いと、ある人が不愛想に言っていたが、戦争で逃げまわるくらいに命の危険が極まった状況では、かえって宇宙や人文系の学問の知を、人は渇望するようになる。死を意識すると功利的ではない本質的な知を求める。そのような時に人々の魂を救える学問でありたい。 pic.twitter.com/fqG1kmVJkP
— Masahiro Hotta (@hottaqu) 2021年8月24日
「宇宙神学」とでも呼びたい。私がここでぼんやり希求しているのも、こうした学問のような気がした。
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(8月30日:ポール・デイヴィス関連)
《私たちは、遠い祖先のように宇宙を眺めて、「神が私たちのためにこのようなものを作ったのだ!」と宣言できるでしょうか?私はそうは思いません》
《では、私たちは自然の事故であり、盲目的で目的のない力の異常な結果であり、無心で機械的な宇宙の偶発的な副産物に過ぎないのでしょうか?私はそれも否定します。生命や意識の誕生は、非常に基本的な形で宇宙の法則に書き込まれていると私は考えています》(ポール・デイヴィス:DeepLで翻訳)
さてでは。もしも私たちがいることが宇宙の必然であるならば、そもそも宇宙があること自体は言うまでもなく必然だよね。――そう思っていいのかというと、それはまた別の問いのようにも思える。月曜の朝が来た。
量子力学、量子力学、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、アッラーフアクバル、アッラーフアクバル…
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(8月30日:これも関連ーーそもそも「無い」とは何か?)
http:// https://twitter.com/yokoyama33/status/1431474080562040844
夜中に読んだ。外はそろそろ明るくなる。
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一応、以下に続く。