「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」 ここ数年、それを考えると眠れなくて困る、というほどではないにしろ、それを考えると眠くなって困る、ということはまったくない。
ジム・ホルト『世界はなぜ「ある」のか?』(早川書房)は、ズバリそれを追及する一冊で、久しぶりにまた読んでいる。
新たに「そうか」と思ったこと。
「そもそも世界がなぜあるのか?」は、「ほら、神を想定しないと、科学じゃ説明できないでしょ?」と、神の存在を信じる側が信じない側に突きつける問い、という意味あいが大きいこと。
そうしたこともあって、無神論者なら「ていうか、世界はまちがいなく存在してますよね。なぜといったって、ただ存在しているだけでしょ。それがなにか?」みたいな態度になるものであるらしい。
だから私が、この問いが気になって仕方ないのは、私が正真正銘の無神論者ではないことを意味するのかもしれない。神様がやっぱりいてほしいと思っているのかもしれない。
もう1つ今回気づいたこと。
「何もない」と簡単に言うけれど、完全な無というのは、まったく不明の状態であり、きわめて異様な状態であるだろう、ということ。ほんとに何もない無なんて、体験できるはずもなく、理解も想像もまずできない。「無限」が不明で異様なのと似ている。
というわけで、世界がないのではなく「ある」ことが奇妙で不思議だと、ずっと思ってきたわけだが、ひょっとしたら、むしろ世界が「ない」なんてことがあったらそのほうが、もっとはるかに奇妙で不思議なのだと思ったほうがいいのかもしれない。これはすごいことに気づいた。
というわけで、あらゆることのベースに「ある」ということがあるのであって、「ない」というのはないのかもしれない。宇宙がある。地球がある。私がある。仕事がある。「ある」以外のものはありえない。かもね。
仕事も「ない」ということは、ほんとにないな。
同書に出てくるグリュンバウムという人によれば、古代ギリシャ人も古代インド人も「なぜ何かがあるのか」なんて気にしなかったそうだ。そんなことを思いついたのはキリスト教。アウグスティヌスやアクィナスからだという。「神は無からすべてを創造した」という発想が間違いの起源ではないか、と。
世界はなぜ「ある」のか?:「究極のなぜ?」を追う哲学の旅 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
- 作者: ジム・ホルト,寺町朋子
- 出版社/メーカー: 早川書房
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<6月14日>
世界はなぜあるのか? 中世のキリスト神学以後、《そして何世紀もたってから、ついにある人物がその問いを提起した》という。その名はライプニッツ。
ライプニッツは「あらゆる事実に説明があり、あらゆる問いに答えがあるはずだ」と述べたという。これを「充足理由律」と呼ばれる(この話はメイヤスー本にも出てきた)。ともかく徹底して論理をガチガチに突き詰める感じの人だったようだ。
そんなことを思っていたら、そのライプニッツの『モナドロジー(単子論)』(岩波文庫)を図書館で見かけたので借りてきた。《私たちがここで論じるモナドとは、複合体のなかに入る単純な実体に他ならない。単純とは部分がないことだ》
文章が短く易しいので、かえって深い感じ(本当に深いのだろう)。そしてこのモナドを野球のボールに見立てた現代小説があるのをご存知? 高橋源一郎『優雅で感傷的な日本野球』「ライプニッツに倣いて」。テキスト操作編集の遊戯が粋を極める。80年代日本最良の創作物。また読みたくなった。
<6月16日>
『世界はなぜ「ある」のか?』は、著者ジム・ホルトがこの問いを引っさげて多数の著名な研究者を訪ね歩いたルポでもある。議論の中身に加え、対面から別れまでの情景や相手の風貌などを、まるで日記のように、しかもやけに叙情的に描いているのが、意外で奇妙で面白い。
訪ねた1人がデイヴィッド・ドイッチュ。著書『無限の始まり』が私には最重要の1冊。だが、ホルトの筆によって天然キャラが立ちまくる。とりわけ、入った部屋の乱雑さ。
《「だらしなさの国際基準を設定している」ことで有名なのは知っていたが、その眺めは、むしろ屋内堆肥化の実験のように見えた》
《ソファーには、ほとんどティーンエイジャーかと思うような、赤みがかった金髪の若い美人が座っており、マカロニチーズを食べていた。ドイッチュは彼女に「ルーリー」と呼びかけた。ルーリーはソファーで少しずれて、場所を空けてくれた。やる気をそがれるような雰囲気だったが、こうして会話が始まった》
鮮やかなイメージが議論の中身に増して浮かび上がった。
しかしドイッチュは、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問いには、さして関心を示さない。そのわけは、どうやら、彼が、マルチバース(宇宙は私たちのもの以外にも無数にある)ということを、当然のことだと捉えて疑わないところにある。多世界解釈も支持しているらしい。
マルチバースをマジに信じて生きる日々は、いったいどんな感じなんだろう。地獄や天国をマジに信じて生きる日々にも似ているのか。マルチバースをマジには受けとれない私は、かつて「地球は丸い」と言われても冗談だろと笑った人に似ているのか。「インドの先あたりで海は滝のごとく落下します」
ところで、Googleで「デイヴィッド・ドイッチュ」を画像検索したら、ドイッチュの肖像写真に並んで、ザルに入ったヒマワリの種の写真が1枚出てきた。これは以前 私が『無限の始まり』の感想をブログに書いたとき、意味もなく付したもの。いろいろ無意味なことはするものだと思った。
<7月13日>
『世界はなぜ「ある」のか?』(ジム・ホルト) その後。この問いは、宇宙物理学の問い、キリスト教神学の問い、論理や数学を含む分析的な哲学の問い、この3つに分かれるようだ。それがはっきりした。
そして、私としては3つのいずれもスルーできないことがわかってくる。そして、それは「そもそも宇宙があることが、そして私がいることが、一から十まで不思議としか言いようがない」という思いから来ていることも、はっきりしてきた。
さらに「宇宙があること、私いること」が不思議でなくなるような解答があるとしたら、やっぱり、神というようなものになんらか関係する類の解答になるしかないのだ、ということも、うかがい知れてくる。無神論者なのに神とは何かを考えないと始まらない。
ということで、中間報告終了。また読もう。https://www.amazon.co.jp/dp/4150504806
→https://tokyocat.hatenadiary.jp/entry/2019/07/14/000000 に続く