東京永久観光

【2019 輪廻転生】

Mさんとの対話

人間の誕生は宇宙の必然か? - 東京永久観光 をめぐって

 

<6月1日>

Mさん
「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問いはぼくも考えてましたが、この場合の「何もない」というのはさてどういう状況なのか、何と比較して「ない」と言えるのか、というのはありますね。そこには「ない」という事態が「あってしまっている」のではないか?

「ない/ある」という2つの状況を取り得るものそのものは「ある」ので、究極的にはその何かは「ある」ことしかできないんじゃないか、「ある」ことが性質そのものなのでは……みたいなことを考えています。

 


同感です。私のばあい5年ほどかけてやっとそうした考えに到っています。「無限」が「ものすごく多い」とはまったく違うように、「ゼロ」が「ものすごく小さい」とはまったく違うように、「ない」というのは実はまったく想像もできないし存在もできないのではないかというふうに気づきました。

そのように「まったく何もない」を想定できそうにないのに加え、実際このように「何かはある=まったく何もないわけではない」のだから、「もしまったく何もなかったら」と問うのも実質的ではないようにも思います。

それでも「なぜ何もないのではなく、なにかがあるのか」と問うのは、「私がただの偶然の存在で死んだら終りだなんて、とても寂しい、そんなことがあっていいのか?」という問いかけかもしれません。その点で私にとって「生命や意識や知性は偶然ではないのでは?」という問いかけは似ているのです。

 

<6月2日>

Mさん
「死んだら終わりなんて寂しい。そんなことがあっていいのか」という考えは、もちろん自分も過去に持っていましたが、どうにかしてそこを通りすぎてしまいました。今は、「何かはあり、それは存在をやめることはない。私はその大きな何かの一部であることに安堵する」みたいな感じですね。

この考え方は非常に宗教味を帯びた内容に聞こえるんですけど、むしろ、昔から「なぜ何もないのではなく何かがあるのか」「死んだら終わりなのか。それでは寂しいではないか」ということを考えていた人たちがいっぱいいて、考え続けた末に同じような結論に辿りついているのではないかと思います。

ただ、この考え方がほんとうに正しいのか、それともたわごとに過ぎずやっぱり死んだら終わりなのかということは、結局わからないままなんですよね。それでもこういう考え方を得たことは良いことだと思っており、自分は納得しています。そしてこれが「救いを得る」みたいなことなのだろうと思います。

 


「何かはあり、それは存在をやめることはない。私はその大きな何かの一部であることに安堵する」 これはとてもいいですね。なるほど。なにかが必ず存在していることは謎ではなくむしろ土台というか着地点というか、そういう感じかと思います。これまでどうしてこう考えなかったのかと不思議です。

このように言語化することが大事なんでしょうね。ただ、一人で考えていると、いろいろ言葉を使っているつもりでも、繰り返しばかりで、案外狭いところから出ていけないのかなと思います。

とにかく「なにかがあるしかない」のは根本の基盤で絶対覆せないような気は私もしています。ただそれでも夜中にふと「こういうことのすべてがまったく何もなかった」可能性はないのかと、やはり素朴に問いたくなります。それはただの素朴な錯誤にすぎず、その可能性は皆無なんでしょうかね。

そんなことはない、これらのすべてがまったく何もなくたってよかったはずじゃないかと、思ってしまうのです。この宇宙の生成もこの太陽系や地球の生成もこの生物たちやヒトの生成も私の生成も、すべて偶然なのだから、すべて最初から何もなかったとしてもヘンではない。私にはそう思えるのです。

もしも何もなかった可能性があるとしたら、何かがあるこの世界は、なかなか奇妙で、なくてもよいのにあることになった根拠があるべきだと思いたくなります。(これもまた、多くの人が考えてきた一般論の繰り返しだとは思いますが)

 

<6月3日>

Mさん
何もなかった可能性、あるいはこのあと何もなくなる可能性は、あるかも知れませんが、それについては特に寂しさや怖さを感じることはないですね(これも、考え続けているうちにそうなったのですが)。存在しない自分は、自分が存在しないことを残念に思うことができないので。

死んだら何もなくなるなんてそれは嫌だ、というのは、世界の外側に視点がありますよね。また、もしこのことを本当に恐れているなら、眠ることもできないのでは、とも思います。寝ているうちに死んで、そして死後には何もないとしたら、怖くて眠れなくはないでしょうか。眠りと死は近いと思います。

何もなかったかも知れないのに何かがあるということを考えると、とても喜ばしい気がします。その逆を考えると恐ろしく感じます。が、もし「実はそもそもあることしかできない」のだとしたら、こちらで勝手に喜んだり恐れたりしているだけなのかも知れません。

少しずれますが、何もなくなることが寂しくない理由として、先に挙げたものの他に、もう充分である、という感覚を持ってることもありそうです。もう満足したので、あとは何もないとしても惜しくはないという感じ。これは多分に経験から来ているので、言葉で伝えるのは難しいかなとも思います。

 

<6月4日>


一人で考えているのと違い、こうしたやりとりをしていると、わりと全体をしっかり読み返して再考するものだなと、ありがたく思います。それで初めて気づいたことですが――

「何もなかった可能性、あるいはこのあと何もなくなる可能性」に「寂しさや怖さを感じる」ことは、たしかに私もないのだと思いました。だから「私が死んでしまのはいやだ」という思いは、本来は別のことなのでしょう。

それでも「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」の問いが必須なのは、「何かがあることが、なんらかの理由で必然だった」という答えに到ったなら、私は初めて「だったら私が死んでしまうのもいやではないね」と思えるから、という構図のようです(すでに書いているかもしれませんが)

私が今書いた「何かがあることが、なんらなの理由で必然だった」なら「私が死んでしまうのもいやではないね」という思いは、まさに、みちアキさんが書いた「何かはあり、それは存在をやめることはない。私はその大きな何かの一部であることに安堵する」と、同じなのだと改めて気づきました。

さてそれで、みちアキさんにとって「何かはあり…安堵する」と、先ほど書かれた「もう充分である、という感覚」は、同じものですか?

「もう充分である」を「自分の実際の人生の具体的な経過に満足ているから、もう何も思い残すことはないよ」といった意味で口にする人はわりと多くいると思いますが、みちアキさんも実際にそうした充実感を明らかに得たということですか? (詰問みたいですが、純粋に興味があって聞いています!)

さてまた私のことに戻りますが、「なぜ何もないのではなく何かがあるのか」と「私が死んでしまうのはいやだ」は、本来は別ですが、どちらも私には根本的な疑問なので、それぞれなお考え続けると思います。ゴールは解答ではなく疑問の消失なのでしょうが、不明ゆえまだ消失したとは言い難いのです。

とりあえずここまでです。

 

<6月5日>

Mさん
「何かはあり…安堵する」と「もう充分である」は、別のものですが関係はしていると思います。存在に安堵するのは、世界をよいものとして捉えていることから発展して出てきたのかもしれません。自身を恵まれていないと感じ、世界に不満があるとすると、反出生主義的な考えが出てきそうです。

子供時代から何十年もたっているのに、いまだに世界は美と不思議に満たされていると感じますし、毎日が楽しいです。もう充分であるという言い方は少し違っていたようです。「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」というその心境かなと思います。

話は変わりますが、一時期「"わかる"とはどういうことか」を考えていました。そして「"わかる"とは"わかった"という気がすることだ」と結論づけました。腑に落ちるというあれです。なぜ?なぜ?と問い続ける最後にはそれが来るのではないかと思います。

Aとはなにか? Bのことである。Bとはなにか? CをDすることである。こう説明を繰り返していくと、最後の最後はもう説明できない、それ以上分解できない、経験や感覚に根ざすものにぶつかって、そこで終わるのではないかと思います。そして、何かが存在するということも、そういうものかもしれないと。

最小の粒子、みたいなものです。原子は電子と原子核からできていて、原子核は陽子と中性子からできていて、それらはクォークからできている。それが最小である。最小のものはもう分解できない、構造を持たないわけです。ただ性質だけがある。なぜかそうである、というほかない。

「なぜ何もないのではなく何かがあるのか」という問いに答えが与えられたらそれは大きな喜びであると思いますが、以前よりはそのことに対する思い、問い続けるエネルギーが弱まっているようにも感じます。自分はどこかで"わかった"気がしてしまったんだと思います。

 

<6月7日>


遅くなりましたが返答を2つ。

最小の粒子という謎。とても興味深いです。その答として仮に「これだという物体」が示されたら、じゃあそれを半分にしたら?という素朴な問いを回避できず、しかし「これだという性質」だけが示されたら、たしかに引き下がるしかないと思います。

実際、理論物理学の解説を読んでみると、電子やクオークなんて、物体としてどうかはまったく不明で、性質・情報・概念でしかない感じが、ありありですよね。

同じく、宇宙の始まりとか宇宙の外側とかも、なんらか答が示されたなら、どうしても「じゃあ、さらにその前は? さらにその外は」と素朴に問いたくなりますが、そうした素朴な問いを受け付けない形式の答であれば、もう引き下がるしかない。カントもなんかそんなことを言ってたようですね。

この関連で「それ以上分解できない、経験や感覚に根ざすもの」と書かれていましたね。私としては、それが何かと問いそしてそれを何かの「類似・アナロジー・比喩」として位置づけられたときは、わりとすんなり納得します。(この世のすべては類似の構造や形式で理解されるのかも!?)

レイコフという人が「あらゆるメタファーは最終的には身体感覚のイメージに行き着く」と言っており、それを知ったときは大いにうなずきました。――たとえば「給料が上がる」「この事実は重い」はメタファーですが、身体感覚の「上がる」「重い」はもうメタファーではなく事実そのものという感じ。

さてもう1つの返答です。「世界は美と不思議に満たされていると感じますし、毎日が楽しい」と書かれていましたね。もうそうとう昔ですが、『自死という生き方』(須原一秀)という本を読んで、みちアキさんのことを思い浮かべた記憶があり、そのことを思い出しました。

私のブログに残っていました。
https://twitter.com/tokyocat/status/1400481750757756933
「希有な人 - 東京永久観光」

 

<6月9日>

Mさん
「あきらめる」ということに関してですが、「答えは示されているのに理解できない」ということもあるかもしれないと思っています。動物と人間を比べると、明らかに、前者には理解できないが後者にはできることが世界にはあります。

そのアナロジーでいくと、人間には理解できないが、より大きな知性であれば理解できるということも、あるかもしれないと思うのです。実は世界の謎の答えは最初から全て投げ出されているけれど、私たちの脳の容量や構造ではそれらを理解できないだけ、ということはあり得ます。

もしそうだったら? まぁ、来世に期待するしかないのかもしれません。こういうことも「あきらめる」のうちに含まれそうですが、あらゆるケースを考えてしまうんですよね。なかなかこれという答えに手が届かないので。

また、今回対話させていただくなかで考えが深まったのですが、やはり「ある」と「ない」とは対等ではないのではないかと思います。リンゴの写真は撮れますが、「リンゴがないという写真」は撮れないですよね。「それはミカンがないという写真では?」と言われてしまうかもしれない。

「何かがない」と言うためには、先にその何かがなくてはいけない。それがモノなのか概念なのかはわかりませんが、とにかく先に、まずあって、それからでないと「ない」とは言えないのではないでしょうか。「ある」は「ない」に先行するように思います。このあたりはいまもう少し考えています。

 

<6月10日>


全体的に強く同感です。似たことを考える人が実際にいることが面白いです。「ある」が「ない」に先行するとは、「ドーナツがないのにドーナツの穴だけがある、ということはありえない」という感じだろうと思います。

「リンゴがないという写真」をめぐっては、ウィトゲンシュタインが「この部屋にサイがいない」という主張を絶対に認めなかったという話を思い出しますね。「ない」は絵に描けない。否定は肯定がベースにならざるをえず、両者は対等ではないということでしょうかね。

その一方で、同じウィトゲンシュタインは「神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである」と『論考』に書いています。

これこそ、私が「この世界すべてがもともとまったくなくてもよかったかもしれないのに、なぜかこの世界があるというのは、やっぱり途轍もなく不思議だ」という気持ちと同じなんじゃないかと、思っています。やっぱり私にとってこれは最大の謎なんですよね。

とはいうものの、上記の問い「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」は、たとえば「三角形はなぜ四角形ではないのか?」という問いに似て、ただの錯誤でしかないのかもしれません。そうだとすると問うのは徒労です。

さらに、いずれにしても、いまここの現状として「何もない」わけではなく「何かがある」のだから、その現状を無視しても仕方がないということも、重々わかっているつもりです。

さらに言うと、カンタン・メイヤスー『有限性の後で』という難しい本を途中まで読んだのですが、どうやら「世界がこのように在ることに必然性はまったくないが、その必然性がないことだけは絶対的なんだ」といったことが書いてあります。

これも奇妙な文言ですが、結局やはり「世界がある」という事態は、どうしても覆えせないのか、という感想を抱きました。そんなふうに、私もこの5年ぐらいで、「ある」と「ない」をめぐる思索に多少目鼻がついてきた実感を持っています。

それから、こうした問いにしろ、もっと卓越した問いにしろ、「人間には理解できないが、より大きな知性であれば理解できる」ということは、たしかに大いにありそうです。

しかしながら、人間の思考は実はありうるすべての思考の大部分をすでにカバーしている、ということもあるかもしれないとも、私はひそかに思っています。つまり「どうしてそうでないと言い切れるのか、言い切れない」とひそかに思っているのです。

あまりに人間至上主義・自己中心的にも見えます。しかし、もともと同じものから非常に多数の動植物が進化したなかで、人間のようなものは1つしか現れず、しかもぶっちぎりで他からかけ離れていることから、人間が相当すごい可能性はあるでしょう。人間に似たものがごろごろしていれば別ですが。

単に人間が大したことがないために想像できない、というのがたしかに1つの答えでしょう。しかしもう1つ「人間は相当のところまで到達しているため、そもそもその先はもうあまりない、もうその先はそもそも想像しようがない」という答えもありえるように思うのです。人間を買いかぶり過ぎですが。

 

<6月13日>

Mさん
世界がこうあることは必然か偶然か、ということは、神は存在するかしないか、ということに関わっていると考えています。必然とはどういうことかというと、目的、あるべき姿、そのようなものがまずあり、そして実際にそうなっている、そうなった、そういうことを言っているのだと思います。

つまり、世界がこうあることは必然だった、と言う時、世界の存在に先立って、あるべき姿があり、世界の有り様はそれと一致した、ということになります。それを定めたのは世界の外部にいる存在であるはずで、それを神と呼称するのではと思います。

メイヤスーの本は読んでいませんが、「必然性がないことは絶対的」というのは「神はいない」と言っているのと同じに聞こえますね。個人的には、必然か偶然かはどちらでもよいと思います。また、どちらであるかは知り得ないのではないかという気がします。

「世界については知り得ない」という考えは、ゲーデル不完全性定理からの連想です。要は、私たちは世界の一部である、世界の内部にいるので、内からでは答えがわからない問いはあり得るし(第一)、自身の正気さについても信じるほかないだろう(第二)、という感じです。

「世界の存在は必然だ」と「神のようなものがある」とは、私もまさに同じことだと思っています。そのときは「目的」という言葉も相応しくなると思います。さらに「意図」や「価値」といったことすら探る余地が出てくるかもと思います。

 

<6月14日>


メイヤスーの考えは十分わかりませんが、世界が存在する根拠は「無い」というより「知りえない」という立場なのかなと思います。世界が存在する根拠を当てにできないところでどう世界をとらえどう生きていくのかを考えているのかも…。

不完全性定理から「世界の内部にいては証明できない世界の真理が必ずある」と考えるのは面白いですね。ちなみに数学の関連で私が思うのは「神があるとしよう」から世界を説明するか「神がないとしよう」から世界を説明するかは公理系の違いかなということです。

さて元の「必然」という言葉に戻りますが―― いろんな人に「宇宙が存在するのは必然だと思う?偶然だと思う?」と聞けば、「神はいると思う?いないと思う?」と同じことを、わりと冷静に実質的に聞き出せるように思います。

 

<6月19日>

Mさん
「ある」「ない」の件で、「Xがないという絵」は描けない、「Xがないという写真」は撮れない、という話がありましたが、ここで、なぜ絵や写真を考えたんだろうと思いました。別にフレームで区切る必要はなかったんじゃないのかなと。

「Xがない世界」ということ自体が、できないのではないかと思いました。それはつまり「Xがない」ということができないということです。先にも語ったように思いますが。

宇宙や世界がいつかなくなっても、論理や数学は残るように感じます。論理や数学の強固さや精緻さは、世界と独立して存在しているように思う。でもそうすると、仮に「何もないこともできて、そしてほんとうに何もなかった」場合にすら論理や数学はある、ということになりそうです。

つまりそれは正しくなく、「何かがあり、私たちがあり、私たちの頭の中に論理や数学がある」というのが実態ではないかと思います。それは私たちが作り上げたものではないのかと。

世界は「Xがない」ということはできない。「ない」という概念は論理や数学の産物であり、「事実として世界がなかった可能性」と言う時にすでに論理や数学のことばが滑り込んでいるように思うのです。

私たちは「ない」という概念を理解できイメージできるため、不思議なことにこの話も通じると思いますが、それは実際の世界の有り様とはずれているのではないか、そのように思います。

 

<6月23日>


「これは論理や数学の話じゃなく事実の話なんだよ」という思いで書いたのですが、《「事実として世界がなかった可能性」と言う時にすでに論理や数学のことばが滑り込んでいる》と言われると、その通りかもしれませんね。「なかった」も「可能性」も紛れもなく人間の頭の中から出てきた…。

今回私はポール・デイヴィスの本を読んで、「なぜ何もないのではなく何かがあるのか?」という問いからは少し離れ、「人間の出現は必然なのか」という問いに向かおう!と決めたわけですが、そもそもその理由は、前者の問いでは今のように袋小路に入るしかないという実感が強いからでもありました。

 

※上記は以下を転載したもの

https://twitter.com/tmichiaki/status/1399615743398797314

https://twitter.com/tokyocat/status/1402644419677876225