東京永久観光

【2019 輪廻転生】

★「科学にすがるな!」 宇宙と死をめぐる特別授業/佐藤文隆・艸場よしみ(追記8.5)

  「科学にすがるな!」――宇宙と死をめぐる特別授業


どうしても知りたかった問いを、どうしても聞きたかった相手に、満を持して投げかけたら、あっという間に玉砕してしまった、という本。

その点では失敗本と言えるが、私には、その問いが私がどうしても知りたい問いに完全一致しているのと、しかも、その相手がまた、ええっ 私も一番聞いてみたいのはまさにこの人かも と言いたくなる人物だったのとで、なんというか、惑星が直列して海が割れて宝くじが当たってワタミが懺悔するくらいの奇跡本になった。


どうしても知りたい問いとは、私なりに言えば「死んだら終わり? ……ウソだろ……でもホントだよな……でもホントにホントにそれでいいのか?」といったもの。

問う人、艸場よしみはこう書いている。

《台所に立って野菜を刻んでいる最中に、死ぬとはここから永遠にいなくなることなのだと思ったとたん、力が抜けて包丁をもったまましゃがみこんだこともあった》

《人間は誰しも、死んだら無になることが受け入れられないのです。何を頼りに死ねばいいのか、と。そこで、その気持ちを鎮めてくれる心の支えや頼りがほしいのです。だから、天空の向こうにあの世があるんじゃないか、あるいは宇宙が転生輪廻をつかさどっているんじゃないか。そんな期待を抱き、その証拠を探したくなるんです》

私もわりと昔からこのように考え、最近それが先鋭化している。でもこの問いに心底共感してくれる人は、大東京においてもマック赤坂に投票するくらい少人数のようだ。だから、艸場さんは希少な同士と呼んでよい。


その切実な問いをぶつけようと探し当てたのが、佐藤文隆先生だった。

佐藤文隆宇宙論をはじめとする理論物理学者。量子力学の奇妙さを真っ正直に見つめた『量子力学イデオロギー』と『量子力学は世界を記述できるか』(下のリンク)が私には決定的な2冊だ。
 ◎http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20121022/p1
 ◎http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20121224/p1

艸場さんはこんな気持ちだった。

《宇宙には、生命や死の神秘が隠されていそうに思う。やっぱり人智を超えたものがあるのだろうか。でも、ほんとうはどうなんだろう。宇宙の研究者は何かに気づいているのだろうか。宇宙を科学的に解き明かしていった果てに、人間存在についてどんな考えに至るのだろう》

これも実にうなずける。


しかし、その期待はわずか10数ページで砕け散る。

以下、佐藤先生の弁。

「あなたの主題である「死」というものを、第一と第二だけで考えたらむなしくなる。死というのは、第一世界の概念ではなく、第三世界の概念なのだよ」

「科学的に原子や分子のレベルでいえば、生とは有機的な集合体ができることで、死とはそれがふたたびバラバラになっていくだけのこと」 「しかしね」 「これは「死」ではない。「死」というとき、すでにサイエンスではないのだよ。死という現象は、第一世界の現象だとは思わない。第三の世界の概念です。死というのは第三の世界のターミノロジーで、サイエンスがわかったところで死がわかるわけではない」

第一・第二・第三世界とは佐藤先生の用語。第一世界とは外界に実在するとみなせる現象、第二世界とは夢や想像として内面に起こるような現象、この2つはどちらも脳の知覚としては同じで物質にも還元できる。しかしそれとは別に私たちには第三の世界がある。それは私たちが個人を超えて受け継いできた文化、芸術、宗教などを指す。そして佐藤先生は、「死」は第一世界でも第二世界でもなく第三世界に属する概念だと強調する。

こう説明すると難しそうだが、要するに佐藤先生は「死は科学が担当するテーマではありません。それは文化や芸術や宗教の担当でしょう」と問いをあっさりかわすのだ。

単純すぎて最初はピンと来ない。しかし普通に考えれば、たとえばネジの強度をどう高めるかやトマトの味をどう良くするかを極めても、死とは何であるかが納得できるようにはならない。死が科学のテーマではないとはそういう意味だろう。同じく、宇宙がどう膨張しているのかや重力がどう伝わるのかを解明することもまた、死を受け入れることとは無縁だと、佐藤先生は強調しているのだと思う。

死が物理学の関心事でないのは、死が居酒屋の関心事でないことやプロレスの関心事でないことと同じなのだ。


最初、「死とは何か」と迫る艸場さんに佐藤先生があまりにもつれないので、「ちょっとそれはないだろう」と心がざわつきもした。しかし読み進むにつれ、その理由がふと推し量られてきた。次のごとく――

私たちは「死とは何か」を居酒屋経営者やプロレスラーにはあまり質問しない。質問しても仕方ないと思うから。ではなぜ宇宙物理学者にはうっかり質問してしまうのか。

おそらく、相対性理論量子力学が難解であるせいで、それが崇高であるとかそこに神秘が潜むといった誤解をしてしまうのだろう。

その誤解が佐藤先生はとにかく許せないのだと、私は感じた。第一世界だけを扱う科学という限られた分野のさらに対象も絞られた宇宙物理学について、ぜひとも正確に伝えたいのに、いつも死や神秘や崇高といった話が混ざってくるから、すでにさんざん嫌になっているのだろう。

「根源なんて」 「ないんだよ、そんなもの」 「根源なんていう言葉に意味はない。究極の物質を突き止めるなんて、軽々しくいう言葉ではないし、意味はないのだよ」


さてしかし、ページはまだずいぶんある。

いったいどうなる?と心配したのだが、なんとこの本は結局、佐藤先生が、私たちの世界にとって「死とはどのような位置にあるのか」はほとんど語らない代わりに、私たちの世界にとって「物理学とはどのような位置にあるのか」については、その胸の内をズバズバ明かしていく貴重な一冊となった! 


 ***


同書のメモや感想をまとめておく。「  」は佐藤文隆の弁(一部艸場の弁)。《  》は地の文。


<第1章>

サイエンスがわかったところで死がわかるわけではないと、艸場の問いはあっさりかわされてしまうわけだが、そのうえで。

「ぼくはね、人間とは実にけなげな存在であると思うよ」

けなげとは? 宇宙や人間を考える際に神を想定する考え方とそうでない考え方があり、けなげという思いは、むしろ後者の考え方から出てくる。

「(超越的存在は)ないかもしれないし、あるかもしれない。けれどとにかく、自然は人間のことなどなんとも思っていないし、われわれと何も関係がない、という考え方。われわれなど、いてもいなくてもよかった存在であるから、超越的存在がそこまで管理するほどのものでもない」

「最後の大氷河期が終わった数億年前あたりは、われわれは哺乳類の小ネズミだったといいます」「超越的存在が世の中のつくり方を教えてくれたのではない。小ネズミの大きくなったのが寄ってたかって、その中だけでつくってきたものである、というのがぼくの立場です。上からのお墨つきもなく、助けてくれる人もなく、そのかわり税金も取られない。こんな存在が、集団でいろんなマナーや知恵を残してきた」

そこに健気さを感じるというのだ。

「ぼくが人間をけなげだと思う理由の一つは、考えたことや知恵を、よくも延々と受け継いできていることです。これこそ、人間というものの特徴である。第三の実在を、物があるのと同じような感覚で受け取って生きている。何らお墨つきがあるものではなく、「そうだよね」「そうだよね」といいながらつくって伝えてきたのです。この第三の世界では、サイエンスはしょせん補助的なものだよ」

うなずける。

ここから、生きてきた甲斐といったような思いが、佐藤の口からポロリとこぼれる。それが図らずも、「死をどう納得するか」に通じていく。

「第三の世界に人類の一人として寄与できたことが、ある意味で永遠に生きるすべであるかもしれない」

「何のいわく因縁のある家に生まれたわけでもないし、けなげにやってきた。そんなぼくでも宇宙の理論がわかる。自分自身をけなげだと思う」

死んでもいいと納得する仕方の1つは、第三世界の実在に気づくこと、そして第三世界になにがしかでも寄与できたと思えること。

そして願わくば、その一隅に私もいさせてもらいたい。たとえば宇宙の理論が頑張って本を読むことで少しはわかるようになること、そうした思いの丈をブログでもいいので残すこと。


<第2章>

再び引用。

「根源なんて」「ないんだよ、そんなもの」「根源なんていう言葉に意味はない。究極の物質を突き止めるなんて、軽々しくいう言葉ではないし、意味はないのだよ」

「根源」とは「宇宙や人間が存在する意味」ということになろう。物理学はべつにそれを明らかにする学問ではない。そうではなくて、宇宙や人間という現象の、要素になるような部分の、その力学的ふるまいの、ひとつのモデルを数式という形で示すこと。物理学とはそういうものであり、それだけのことにすぎない、ということになろう。

 *

質量と重力の関係について。本題とは無関係だが、やっぱりそうか(定義は循環しているのか)と膝を打った。

「重力とは質量のあるものに作用する力です。このとき、質量があるとなぜ力が発生するのか、という理解の仕方をしないんだ。重力という作用を引き起こすものを質量とよんでいるとしかいえんのです。そういった質問に意味はないのだよ」

 *

「死とは何か」を物理学者に質問するのは錯誤だと再び言う。

「宇宙のでき事を、地上とは異なるあの世みたいに語ることを、ぼくは受けつけない。ぼくは常に宇宙を地上化しているんだ」

それでも、宇宙が神秘だと感じることにはなお根拠があると私などは思ってしまう。死のわからなさは、経済のわからなさやイスラム教のわからなさよりも、やはり素粒子のわからなさや宇宙のわからなさにこそ通じていると思ってしまう。

それに応じるかのように、佐藤は、それでも人間は「もよおす」のだと言う。

(艸場「どこまで解明されても、太陽や月、あるいは宇宙の宗教的な意味合いはなくならないとも感じます」)「うん、そうだと思うよ。人間はもよおすんだよ、何をいわれたって」

しかし、そのようなもよおしは「鬼神」が誘うのだから放っておけと佐藤は言う。(これについては現在本を書いているとも言う。『量子力学は世界を記述できるか』だと思われる)

「鬼神を語らず、敬して語らず、という教えです。敬え、しかし遠ざけろと。考えても答えが出ないものは、そっとしておくのです。あるとかないとか語らずに、どっちでもいいというまま推移しなさいということです」「死の問題は、鬼神なんです」

「なんで私がいるんだろうなんて、根拠がないじゃない。宇宙のグランドデザインがあるわけでもないし」

「宇宙の成り立ちを研究していくと、人間は偶然誕生したものにすぎず、何のお墨つきもなく、誰にもケアされることなく、けなげにやってきたものだという感じを私はもっている。誰も何者も、人間が誕生するようにデザインしたわけではないのです」

「恒星の温度とか恒星からの距離とか、たまたま生命が誕生する条件が偶然そろっただけのことです」

そのようにして、人間原理の話になる。

「ぼくはむしろ、非常に専門的に「人間原理」を使うべきだと思っている。人間という、吹けば飛ぶような存在が、なぜいま存在しているかという意味で、人間原理という概念を使うべき」

これは「弱い人間原理」に当たるだろう。


<第3章> 私たちはどこから来たのか?

ここも本題とは実は関係ないが、非常に勉強になった。

「重要なのは素粒子は粒子ではないことです」「コロンとして大きさがあるものではないのです。朝永振一郎もいっぱい書いている。素粒子は粒子でないという随筆をね。いっぱい書いてみんなを教育しようとしたが、みんな粒子だと思っている」「彼は、素粒子は電光掲示板みたいなものだといっている。電光掲示板は、電球は動かないが、それらが点滅することで光る点が動くように見えるでしょ。素粒子が動くとは、そういうものだといっているんだ」

量子力学と私』(朝永振一郎)と思われる。素粒子とは「物質ではなく情報なのだ」と言いたくなることが、改めてわかる気がした。

素粒子を粒だと思ってしまうのは、そのエネルギーが一つ、二つと数えられるからです。ここに素粒子がいくつかあって、エネルギーの値を計算すると、必ず整数になるのです。エネルギーには最小の単位があって、一倍、二倍、三倍になる。一・五倍なんてのはない。となると、あたかも粒が一個、二個とあるというのといっしょでしょ」

素粒子は「固まっていない」「空間に広がって存在しているのです」

ここでは「空間」という言葉も便宜的に使っているようだ。つまり、「広がっている」という感覚自体が人間の五感に限定された便宜的な認識。

そして、とうとう、先生はこう言う!

「そもそも、原子は存在ではなく機能なんだ」

「われわれは、光を出す装置として原子に気づいたのです。最初に原子という粒を発見して、これは何者? と考えたわけじゃない。見えないものを見つけるときは、何か役割をしているから、そこに何かがあるのだろうと考えるのです」

ますます、物の究極は物質ではなく情報だ! 

 *

そして「場」の話になる。勉強になったのは次のこと。

素粒子はエネルギーとしては一個二個と数えられるが、ふつうの物質みたいに場所を占めているわけじゃないといったでしょ。これは「場の量子論」の教えなんです」

(艸場)「場って、場所のことですか?」

「いや、場とはエネルギーをもったものです。場に「荷」をもつ物質を置くと、ある力を受けるんだ」

(艸場)「あのう、荷って何ですか?」

「荷は場の素です。荷があるから周りに場ができる」

定義が循環しているような気がする。が、それを言ってはいけない

これらを、佐藤は「上げ底理論」と名付け、以下のように説明する。

《電子がない、クォークがないと、知っているものをぜんぶ取り除いたからといって、何もないとはいえないから、上げ底でうやむやに……いやそっとしておくのだ》

これについて以下の説明がまずある。

物理学の第一ステージは「素粒子をどうみるか」。それは1940年代の朝永振一郎の業績。第二ステージは「素粒子はどう誕生したか」。これは1940年代あたりの南部陽一郎ノーベル賞の理論。ただしこのアイディアは宇宙とはまったく関係のないところから出ている。その後、南部の理論を確かめる実験が重ねられ、70年台の終わりに正しいとわかった。そしてぼくたちがこの理論を宇宙に使い、宇宙の初期に素粒子が生まれたようすを解明した。

そして。

上げ底のところをエネルギーがゼロとして考えるのが、さっきの第一ステージだが、次の第二ステージは、上げ底の高さ自体が変わるイメージです。地震で地盤が陥没するみたいにね」

素粒子が生まれて火の玉宇宙になったのは、上げ底の位置そのものが変わったようなものです。たとえていえば、五センチから三センチに下がった。ただし、下がる前も後も静かな真空で、これを真空Aから真空Bに変わったという。AとBの差、つまり二センチ分のエネルギーがあまり、そのエネルギーで素粒子がわーっと誕生したんです。こうして火の玉宇宙が形成された」


<第4章> 私たちは世界をどう見ているのか?

ここも本題とは関係ないが、量子力学について、これまでになく「なるほど」という実感が得られた。

「では、この人間が受け入れがたい理論は何なのか?」
量子力学は、いままでわれわれが見てきた世界の見方が間違っているのですよと、けちをつけてくるんだ。量子力学の不思議さは、理論の欠陥ではなく人間の欠陥だろうと、ぼくは考えている。人間は、自然を素直に見るようにはできていないんです」

「ぼくはこう考えているんだ。量子力学は、物理でいう「もの」ではなくて、人間のあり方、つまり情報みたいなものに関係しているのではないかとね」

「もの自体の法則性と、人間がそれを見たときにどう認識するかの法則性が、ごっちゃになっているのが量子力学だとぼくは考えている。つまり、量子力学は、従来の物理学みたいなものと、そうではない情報みたいなものとの、二つの部分からなっているというのが、ぼくの最近の主張です」

「天気予報だって、明日は雨が八〇パーセントで二〇パーセントは晴れるかもしれないといっている。傘を八〇パーセント持つなんてことはないのに、そういういい方をする。それと同質の問題です。こうした可能性の重なりと、現実のもののあり方が重ねられるかどうかのギャップです」

量子力学をどう考えるのが正しいか、その答えはまだないのです。だからぼくが本を書いているんだ」

「われわれの認識は、まず五感から出発した。しかし知恵と道具を積み科学を発展させて、五感では及ばない素粒子の世界や、宇宙という巨大な世界へとテリトリーを広げてきた。だけど、われわれはニュートン力学より先に量子力学を発見してもよかったし、銀河に気づいたあとに、その中に星の存在を見つけてもよかったんだ。われわれが電波に感ずる生物なら、そんな順番で見つけていたかもしれない。この順番は、自然の側から見ればまったく偶然だと思うよ」

暗黒物質が観測できないのも同じ理由。

「なぜなら、人間は原子からできていて電磁気力で動いているからです。一方、原子は人間との作用が大きいので気づくことができた。われわれはそんなかたよった立場から宇宙を見て、物理法則を発見してきた」

「宇宙をどこまで解明しても、それはわれわれの宇宙なのです。われわれは特殊な世界を見ているんだ」

「宇宙を支配する物理法則も、しょせんはこの宇宙という特殊な存在に関するものです。これを真の普遍性だと思うのは、錯覚だね。ぼくらは、しょせんは自分のサイズにあった範囲でジタバタしているんだ。超越的な神からもたらされた必然ではなく、けなげにやってきてこうなった。そしてぼくらはいま、二度とない時を過ごしているんだ」

量子力学をある程度カリカリ勉強したうえで、「さてどういうことなのか」をさっくり知るには、佐藤先生のような専門家でありなおかつ多面的に総合的に語れる人の率直な語りを聴くのがいちばんいいのだろう。もちろん詳細に理解できるわけではない。しかし量子力学は、おおよそのイメージがむしろつかみにくいから、そのおおよそのイメージがつかめることが貴重なのだ。ただし、さっくりと間違ったイメージをつかんだのでは、もともこもない。だから、大間違いを犯さないために、「少なくともこうではないようだ」というさっくりしたイメージも、大切にしないといけない。


<第五章> 死の永遠性は物理の時間で解けるのか?

「さて、今日は時間と宇宙の誕生について話すんだね」

しかし、時間と一口に言っても物理の問題と人間的社会的問題とは別だとまず釘を刺す。

「死んだら永遠に無になるというあなたの時間間隔は、死後の世界をどう考えるかといったことと関わりがある話だと思う。これはいわば社会的な時間です。ものすごく大きなテーマです。いっぽう、量子宇宙の話はものすごく小さなテーマです。まずこの二つをひっつけてはいかんのです。社会的な時間と量子宇宙は、何の関係もないのです」

量子力学の話はものすごく小さい」とは、短い時間を扱うということではなく、時間という概念は幅広いが量子力学はそのうちのとても狭い範囲の概念だけを扱っている、ということだろう。ゲーデル不完全性定理がとても狭い話であるというのと似ている。

この理解のため「社会のなかに科学があり、科学のなかに物理学があり、物理学のなかに量子宇宙がある」という図式を佐藤は描いている。

さて、そもそも物理学が時間をどう扱うかの核心は、熱力学にある。

「まず時間という観点からいうと、物理学は力学と熱力学の二つに大きく分けられる。しかしこの二つにはディスティンクトな違いがある。なじまないんだ。熱力学は、いわば情報の学問だからね」

聞き捨てならない指摘。なるほど、熱力学は情報の学問か!

熱力学が他の力学とどう違うか。熱力学には時間の向きがある。そこがそれ以外の力学と決定的に違う点。

「熱力学では過去と未来は明確に違う。ところが、力学では過去も未来もないのです。死んでいる状態が、生きてくる。つまり可逆なんだ」

「(艸場)熱力学が非可逆とはどういう意味ですか?」「情報を捨てると、時間がもどらないからです」「(艸場)なぜですか?」「単純な話です。記録を捨てちゃうと、もとにもどせないでしょ」

「少なくとも、熱力学は人間が物事を処理するために生み出してきた手法です。物理はマクロな物体を扱うことからはじまった。いまはマクロなものはものすごい数の原子の集団であることがわかっている。だからマクロなものごとも、ほとんど熱力学的な情報処理で記述する。いまや力学だけで処理できるのは、天体の運動くらいだけ」

さてでは、量子力学における時間の特徴とは何か。

量子力学には三つ目の時間がある」「量子力学独特の非可逆です」「観測したらもとにもどれないんだ。これは、熱力学と違う意味での非可逆です。これも、さっきの二つと関係づけることができない別のものです」

観測の後に位置と運動量が確定する、という点での時間の非可逆性が、量子力学には現れる、ということだろう。

 *

さらに話は進む。以下も非常に勉強になった!

まず次の見取り図が示される。

一般相対論は時空の力学/電磁気学は電磁場の力学/ニュートン力学は粒子の運動の力学(なおこれらはすべて古典力学。これらすべてと少し違うのが量子力学

アインシュタイン一般相対性理論は、時間と空間の力学です」「でね、電気とか磁気の学問、つまり電磁気学は、電磁場の力学であるといういい方をする」「電磁場が時空に当たります。いいね?」「粒子が飛んでいくのは、ニュートン力学です。そして、電磁場を対象にするのが電磁場の力学です。ね?」「それから、時空つまり時間と空間を対象にするのが一般相対論の力学です。いい?」「だから、粒子の運動に当たるのが電磁場であり、電磁場に当たるのが時空なんだ、いいね?」

しかしここで艸場は、いみじくも反論する。

「私は、時間や空間は必ずあるものだと思っています。空間に物がないことならたやすく想像できますが、時空そのものがないことをどう理解したらいいのですか。空間に何かあったら片づけて、こっちにもあったら片づけて、空っぽになります。空っぽになった空間をどこへ片づけたらいいのですか?
 時間だってそうです。用意された空間に時間というレールが走っていて、そのレールの上のある点に私は生まれ、ある長さを走ったあと、死にます。死んだあとも時間のレールは走っているので、私がいなくなっても、地球がなくなっても、宇宙がなくなっても、時間は延々と流れ続け、私はずっと死に続けるのではないですか」

非常にナイスな質問だ。私もまったくそう思う。そう思うから「時空が曲がる」とか「重力と時空は同じなのだ」ということが実感できないのだ。

これに対し《先生は涼しい顔で続ける》

「実感でいうと、時空とそれ以外のあいだにはものすごいギャップがあります。だけど、そのギャップを意識しないように修行しなさいということです。時空を、単なるこうしたものだと考えるんだ。つまり「対象」に過ぎないとね」

それがアインシュタイン一般相対性理論である!

「力学を統一的な原理にしたのです。粒子も電磁場も、力学という同じ数理原理で説明できたから、同じ原理で時空を扱ったのです」

そういうことか! 相対性理論がひとつわかった気がする。

《ゆるがないのは「力学」だ。力学とは、物体と物体の位置の関係みたいなことらしい。「力学を原理とする」とは、物そのものではなく、関係がこの世のありさまを決めるということか。そうなると、絶対的なものだと思っていた時間や空間も、一つの「もの」でしかなくなる、ということなのか……。》

これも艸場の非常にナイスな反応、理解。私の気持ちを代弁してくれている気がした。

「もちろん時空を電磁場と同じ次元で扱うには高いバリアがある。多くの物理学者にもあった。アインシュタインは、そのバリアを力学という視点で突き抜けたんだ。対象に対してもっているイメージより、力学の原理を優先させる」

「(艸場)でもやっぱり、ものが存在したり現象が起こったりするのは、時間と空間が基盤にあるからだという感じは抜けません」「それはカントがいったことです。われわれ人間の思考のフレームワークは、時空を前提にする。しかしアインシュタインはそうではない。このフレームを突き破ったから、一般相対論はカントを倒したと話題になった。一般相対論がいっているのは、われわれの世界にはたまたま時空があった。時間は宇宙の部分品、つまり一つの対象なんだ。物事を解明するとき、対象を見たらわかるというものではないのです。わかる仕組みを開発せねばならない」

カントの位置づけも、ひとつすっきり。

 *

そして量子宇宙の話へ。つまり量子力学を使って宇宙を説明しようというもくろみについて。ところが、なんと、宇宙論量子力学を使ったのは、そもそも間違ったアプローチだったのではないかと、佐藤は考えているのだった!

佐藤先生が何にこだわり何にいらだつのかを見失わないためには、ここを踏まえておくことは不可欠だと思われる。

アインシュタインの方程式は、膨張宇宙を説明するることに成功した。量子宇宙は、この成功に乗ってその先を考える試みなんです」「でも、それでいいかどうか、保証はないんだ。まずそれを手がかりに考えていようとしているだけ。もっと違う理論があるかもしれない。なのに、量子宇宙で時空が生まれた話を前提にして時間を考えようとしたら、とんでもない方向に間違ってしまう。量子宇宙の話が物理学の先端みたいに見えて世間の耳目をひくが、先端の話はどうでもいい話なんです」

「そもそも科学とは」「権威がこけていく物語なんだ」

量子力学による宇宙の説明は「本当かどうかわかりませんよ」。これが結論ということになろう。


<第六章> 宇宙のはじまりの解明と科学の役割

この章も、けっきょく、量子力学素粒子論)から宇宙を解明しようとするアプローチに対し、根本的疑義が語られているようだ。

以下のことがまず述べられる。

宇宙が誕生する仕組みは、物質がどのように誕生したかを知ることで解明されていく。それが物質のもとである素粒子の学問、つまり素粒子物理学。この学問に非常な進展があったのは1980年代くらいまで。小林誠益川敏英南部陽一郎ノーベル賞はそこまでへの貢献。しかしこれ以降は何も進展していない。たしかに実験がその後行われ、理論が正しかったことは実証された。しかしそれは消化試合のようなものだった。

宇宙の起源を探ること。4つの力の統一。この2つは同じこと。

そして、「重力以外の三つの力は統一できたから、この三つを時空の場、つまり重力をもいっしょの理論にくくる試みです」

重力と時空は「一般相対論で見ると同じなんだ。一般相対論は正しいからね」「同じ式で書けるんだ」「空間的にイメージしようとするとややこしくなる。そういう発想をしないんだ。数式が書ければ、ありなんだ」

空間をイメージするな。数式が書ければよい。これは素人が物理学に接するときのコツでもあろう。しかし、そこからは根本的におかしなことが起こる。

「宇宙生成の理論なんて、いくらでもつくれるんだ。アメリカのランドールという科学者なんか、その典型だね」「だって、説明になるように理論をつくるんだからね。いろんなおもちゃがつくれるが、どのおもちゃがいいかはわからない。こうして九〇年以降は無政府状態になった」

やっぱりそうだったのか! 物理学なんて所詮そんなもの。

そして…

「そして世紀が改まったころに、そういう業界で流行ったのが「ランドスケープ」という言葉です」「ここに至って、宇宙はいかなるものかという議論から、なぜわれわれはこの宇宙にいるのかという議論に変わった。「Why we?」という問いかけです。わが身もわきまえず、神が考えたごとき大統一理論をつくろうとしたら、自分の居場所の必然性が何もない。そのとたん、わがファミリーのルーツは?という、えらくローカルな興味に変わった。そで出てきたのが、古くからある、「人間原理」です」

なるほど、人間原理とはローカルな興味か。

「人間の体のサイズは、地球の重力の大きさと原子の結びつきの強さで決まっているんです。このサイズだから、脳のキャパシティがある程度大きくて、単細胞のバクテリアではもちえない文化をもった。また、地球がもっと小さかったら水も待機も吹っ飛んでいって生物なすめないし、木星みたいに大きいとガスの密度がこすぎて、やはり生物はすめない。人間が生まれる条件がたまたまそろっただけなのに、宇宙は人間という特殊な存在を存在たらしめるためのものだという議論にパーっと行っちゃった。これが物理学的な人間原理です」

ここで批判しているのはいわゆる「強い人間原理」か。

そのあたりから、物理学はいよいよ行き詰まってきたという。

「科学はあらゆることを必然として説明してくれると期待して、宇宙を解明してきた。じっさい、「物質のもとになる元素も天体も、膨張宇宙の進化のなかで誕生した。炭素が非常に多かったから、われわれの体の大部分は炭素でできていて……」と、非常にポジティブに説明してきた。しかしその先、つまり時空がどうして生まれたかという議論あたりから、収拾がつかなくなってきたんです。このへんから素粒子物理学は退廃したんだ」

退廃とは?

「ぼくらは何かを解明する目的があって、難しい算数を書いている。なのに、難しい算数を書いていれば、それが科学だと勘違いするようになったんだ。(略)しかも、収拾がつかなくなって人間をもちだしてきた。人間を問いたいなら比叡山に行ったほうがいいんだ」

「数学的に理論はいくらでもつくれるんです。それがサイエンスの一面です。(略)しかし、それだけではなんぼのものでもないんだ」

一方、数式だけの宇宙理論とは別に、ここ数十年実際に進んでいる分野があるという。それが「観測的宇宙論」。NASAが観測した銀河形成以前の宇宙の姿の画像などがその代表のようだ。

「今後も観測が進んで、この時代からいままでのことがパーッと解明されていきますよ、きっと」

ちなみに「宇宙の晴れ上がり」というフレーズは佐藤の造語らしい。


<第七章> 学ぶ意味、生きる意味

壮大なタイトルはともかく、私にとって重要だって点をメモ。

「物理や科学の理論は、人間の思考形式に合うようにつくっているんだと思うよ。だって、人間のものの考え方というのは、しょせんは人間が納得するかどうかだからね。なのに、人間を離れた所に何かあってそれを学ぶのだと考えるのは、間違っている。宗教みたいに、人間を離れよう離れようとしても、離れた所には何もないと思うけどね、ぼくは」

これは2つの点で示唆的。先端科学批判という点、そして宗教批判という点。

「物理学は、実験して測定して出てきた法則性を、数学の形で書き表す手法です。ニュートンは物体が落下する法則を微分方程式で表した。これはマクロの自然を描写するためにニュートンが編み出した手法なんだ。それから二〇〇年後に放射線が発見されたが、このミクロの自然はニュートンの数式では表せなかった。そこで新しく登場した数式が量子力学です。いずれも自然の中に数式があったわけではない」

「ビッグバン宇宙を華々しく語っていたとき」は「物理が世界を支配しているみたいに思っていた。それ見ろ、物理はすごいやろ、みたいにね」

それに対する反省からなのだ、佐藤が生や死という大きな問題に物理学者として頑なに応じようとしないのは。やっとわかった!

しかし今はこう考えるという。

「しかし、トータルとしての宇宙はそんなものではないでしょ? 人間は分子や原子に分解されるけれど、人間とはそういうものではないのと同じです。(略)悩みは物理学では説明できない」

ごく単純なことを、佐藤は述べている。

さて、このあたりから佐藤の話は撚れていき散漫になっていく印象。自らの研究の回想も交じる。

だいぶ進んでから本題であった死について一言ある。

「あなたがぼくに最初に問いかけた、死についてだけれど」「私だって、何もなくなることに何も感じないわけではない」「しかし、第三の世界に何かを残して、そこで記憶という形で生きながらえたいという思いがある。ぼくは学者として生きてきたから、科学の血を残したいと思うが、人によってそれなりに残すものがあるはずです」

「ぼくが第三の世界で生き続けたいと思う気持ちは、宗教と同じようなものかもしれない。僕は、宗教がいうあの世を支えにすることは潔しとしないから、そこにはいかないけれど、同質のものでしょう。人間は宗教という、うまい仕組みを考えたものだと思うね」

「ぼくはずっと、文化や芸術といった、人間が積み重ねてきた第三の世界の素晴らしさをいっているが、そこに目が行くことが大事なことだと思うね。そこで人類とともに生きていくことです」

「死ねば物体としてもどってくることはないでしょう。でも、第三の世界は残る。死んだあとも第三の世界に伴走することが、幸せでもあり救いでもあると思うね。そのために人間を磨くのです」

平凡な結論とも言える。しかし、第三の世界は人間だけが生み出した世界であり、しかもそれは永続する世界である、という指摘は非常に新鮮だった。そして図らずも、その指摘こそが、死という宿命をのりこえる一つの手がかり足りうる。――最初の期待とは離れたところに貴重な収穫があった。よい一冊だった。