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【2019 輪廻転生】

★ホモ・デウス/ユヴァル・ノア・ハラリ

  ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来


http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20180917/p1 から続く
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『ホモ・デウス』は読み終えているのだが、その内容は、私がここ5年〜10年ずっと考えてきたことと、あまりに同調している感じがするので、感想をまとめようとしても繁茂するばかり。むしろ今私が一番何について何を言いたいかを自問自答していくほうが、この読書で得たものを総覧できるように思う。

読書のカタがどうしてもつかない本、今もう一冊あって、それは『有限性の後で』(カンタン・メイヤスー)だけども、そっちはどれだけ読んでも頭が疲れはてて、終わりが見えてこない。『ホモ・デウス』はどれだけ読んでも頭が心地よくて、終わりたくならない。

さて『ホモ・デウス』。私がこの本から得た最大のものは、「無神論」ということの実質、つまり、ものごとを具体的にこのように捉えていることの全体こそを「無神論」として括るべきなのだな、という発見だった。

〈10月20日

無神論とはどういうものか。私の言葉で端的に言うなら――「地震は神が起こすわけではない」そして「戦争も神が起こすわけではない」という考えを指す。地震は自然の現象として起こる。戦争は人為の選択として起こる。神の関与を交えて対策を講じる必要はない。

まさにこの点に、私の思いのピントがピタっと合うようになったのが、ここ1〜2年だった。

◎全体像は http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20160917/p1「宇宙には感情も人生もない」

◎要点は http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20180608/p1「核戦争を遠ざけるコツ」

◎ひねって言えば http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20170822/p1「太陽と月と地球が一直線に並ぶ」

◎長々書くと http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20171118/p1「だったら人間には魂も天国も地獄もあるのか?」

『ホモ・デウス』にそんなこと書いてあったっけ? と思うかもしれないが、個人的には「これって私がツイートしていたとしてもおかしくない」と言いたい箇所が随所にあり、著者への共感は頂点に達した。

さらに、無神論の考えが、この本によって明瞭になるのは、この本が宗教とりわけキリスト教などの一神教を、みごとなまでに相対化・客体化してみせるからだ。

その一神教の分析では、中世あたりに(あるいは最近にいたるまで)信者がこの世界をどのように眺めていたかが、世界史の代表的なシーンとともに、鮮やかに実感させられ、とても面白かった。

しかしそれより、私などは「宗教」というと、その一神教を中心にしたぼんやりしたイメージしかなく、さらには、そうした一神教としての宗教は人類にとってなんらか普遍的で必然的な存在だろうという思いを、ずっと抱いてきたのだが、それが、なんと完全に相対化される。そこがなにしろ新鮮だった。

同書が一神教を相対化するポイントは2つ。1つは、人類にとって宗教は一神教の前が長かったという、指摘されれば実に明らかな事実。実際ユダヤ教キリスト教も農耕革命後の世界像しか反映していないと言われ、ああそうかと膝をたたく。それが宗教の典型例のようでも人類に普遍とは言えないのだ。

同書が一神教を相対化するもう1つのポイントは―― 著者ハラリは宗教を拡大して捉えており、同書が人類の特性として示すキーワード「虚構」「物語」「共同主観」の仕組みをもつものをみな、一神教と同等とみなすところにある。キリスト教が宗教なら、貨幣も会社も国家も宗教だ。

そして、その拡大された宗教の行列には、同書が言う「人間至上主義」の思想(近代思想の精髄といってよい)も並んでしまう。ここに『ホモ・デウス』が問題の書物となる最大の理由があると私は思う。

つまり、ある時代から世界に普及した一神教が、それ以前の宗教によって相対化され、第二の宗教として出現したという見方ができるのと同じく、私たちが(少なくとも私が)明らかに寄って立つ「人間至上主義」が、なんと、3つめの宗教でしかないという疑いを、どうしても持たざるを得なくなるのだ。

人間至上主義の行方は後で記すとして、ともあれ『ホモ・デウス』は宗教の分析に多数のページを割く(虚構と縁を切れない現人類の未来を占うために不可欠というのが理由)。たとえば、宗教は「倫理」を主張するが、その裏付けとして、意外だが「事実」もけっこう主張している、と見抜く。面白い。

〈10月27日〉

さて話を進める。

人工知能が出現してくるとき、通常は「人工知能人間性を持つのか」という素朴だが陳腐な問いが踊り出る。ところが『ホモ・デウス』は、それを最大の問いにはしない。むしろ「人工知能人間性を持たないがゆえの強大な可能性」を探る。そうすべき必要性と緊急性こそを訴える。

さらに、ここは著者ユヴァル・ノア・ハラリ の特に特異なセンスだと思うが、「人工知能と人間が同じか」には、あっさり冷淡なのに対し、「人間と動物が同じか」という問いを、きわめて重いものとして浮上させ、検証していく。

著者の結論としては、家畜などの動物にも、人間と同等の意識があり、人間と同等の感情や欲望があるはずだ、ということになる。

なお、「人工知能人間性を持つかどうか」に著者がやや冷淡なのは、人間性というものが通常は絶対的な位置に置かれるのに対し、著者はそうではないからだ。繰り返しになるが、人間性(人間至上主義)の相対化こそが、『サピエンス全史』と『ホモ・デウス』が投げかける最大の衝撃・驚愕なのだ。

その人間性(人間至上主義)の克服は、人工知能では必然的に進む。当の人間においても、人間至上主義という思想と社会の終焉、および人間性の実体を保証してきた遺伝子や神経細胞やホルモン系の改変とともに、絵空事ではなくなる。そんな未来を『ホモ・デウス』は提示する。戦慄せざるをえない。

「神という絶対と神聖」がじわじわと消滅していった人間の歴史および同書の展開に、翻弄されている暇はない。それはただのステップであり、本丸は「ヒトという絶対と神聖」だ。それがまさかの崩壊にさらされる。

さてそれで、ふと思うこと。こうした『ホモ・デウス』の論述において、人工知能が非人間的である可能性を探るのは理にかなう。しかし、動物が人間的である妥当性をこれほど強く検証するのは、何故だろう?

動物にも人間と並ぶような意識・感情・知性が備わっていることを認識させることで、人間性というものを別の角度から相対化させようという意図だろうか? それより私は、家畜などの動物に対するハラリの温かい認識や態度というものを、感じざるをえなかった。そしてそれは私には欠けていたことも。

『サピエンス全史』と『ホモ・デウス』は、一神教より以前にあった自然崇拝的な信仰の存在を、とりたてて評価するのと同じく、大規模な農耕の開始より以前にあった狩猟採集こそが良質の生活だとみなしている。いわば農耕によって人間は不自然になった。そして家畜という不幸も生じた、と。

 =続く=