東京永久観光

【2019 輪廻転生】

★有限性の後で/カンタン・メイヤスー

 有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論


http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20180720/p1 から続く


まだ行きつ戻りつ読んでいる。北アルプスの大キレットで立ち往生している感じか。

登山はしかし、とにかく登った人は等しくゴール到着だが、読書は読んだ人がみな等しくゴールできているとは限らない。私などさしづめ大キレットから何度も滑って落ちて死んでいる。

さて、その大キレットに当たるような箇所で、議論の明確化のためにとメイヤスーが持ち出すのは、かの「死んだらどうなる?」という問いだ。「かの」というのは、私には少なくともここ3年、長くみればここ25年、わりとマジに考え実際に議論すらしてきた問いにほかならないからだ。

だからこそ、『有限性の後で』をどれほど読みあぐねても、あっさり下山する気にはなれない。しかし、この大キレットを確実に理解して渡り切ることは、おそらくないだろう。後戻りしなければ滑落しかない。ここに「哲学の大キレットから落ちて死んだらどうなる?」という問いが、新たに浮上してきた。

メイヤスーは、たとえば「世界がこのように在ることに必然性はまったくないが、その必然性がないことだけは絶対的なんだ」と説いている。ように思える。わかったそれならと、とりあえず安心して、その岩に足をのせるが、ぐらぐらしていて、あっという間に転落しそうで恐ろしい。

危険な登山には、ザイルで連結した同行者がほしい。オレが観念論の谷に落ちたら、キミは向こうの懐疑論の谷に落ちろ。

《絶対的な存在者ではない絶対者が明らかにされなければならなかった。それこそ、まさしく私たちが事実性を絶対化することによって獲得するものである。つまり私たちは、何らかの特定の存在者が存在することの必然性を主張するのではなく、あらゆる存在者が存在しないかもしれない可能性の絶体的な必然性を主張するのである》 ← 大キレットからのインスタグラム2枚、とりあえず。


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(追記 8月30日)

キレット(『有限性の後で』第三章)から続報。つまるところメイヤスーは《無ではなく何かが存在することは必然的である》と書いている。ただし、この結論を導き出すまでの長い長い曲がりくねった理屈の歩みが、切り立って滑落しそうな岩のアップダウンを形成している。はいつくばって渡り切る。

しかし、もちろん岩の理屈を踏む足元を見つめなければ歩けないわけだが、本当は、その大キレットだけから見渡せる妙なる景色を眺めてこそ、たとえば《無ではなく何かが存在することは必然的である》も本当に実感できるのだろう。まだそのような余裕はない。そもそも視界も晴れていない。

それにしても《無ではなく何かが存在することは必然的である》が正解なら驚くべきことだ。というのも、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」は、個人的にこの世とこの私をめぐる謎の横綱であり、しかし解けるとは思えない展示品扱いだったから。(ちなみに個人的に謎の大関は「死んだらどうなる?」)

なお、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」はWikipediaにもある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%9C%E4%BD%95%E3%82%82%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%80%81%E4%BD%95%E3%81%8B%E3%81%8C%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B

さてしかし、『有限性の後で』では、その大関「死んだらどうなる?」が重要なところで土俵入りする(まったく期せずして)。それどころか、この書物はまさに、横綱「なぜ何もないのでなく、何かがあるのか」を倒すための(あるいは不戦敗をもたらすための)格闘技なんだろうか、とすら思い始めた。


http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20181115/p1 へ続く