東京永久観光

【2019 輪廻転生】

クォンタム・ファミリーズ(東浩紀)感想断片


(1)

量子的な並行世界が存在し、情報操作による改変がそこに加わり、人物もタイムスリップによって移動する。そのようなわけで、多数に分岐した世界の時系列と関係を踏まえてストーリーを把握していくことになる。私も紙に手描きしながら読んだ。


ネットには素晴らしく整理された年表がアップされている!

http://d.hatena.ne.jp/superficial-ch/20100130

こうした楽しみは映画『バック・トゥー・ザ・フューチャー』と同様だ。あの映画についても3作まとめた完璧な年表がネットのどこかにあった。

なお量子力学による多宇宙については、ちょうどポール・デイヴィス『幸運な宇宙』を読んだ後だったので、人間原理の話も含め、ぐっと親近感が増した。


(2)

それにしても、その空想というか妄想科学理論の炸裂はすごい。

《量子脳計算機科学の基本定理によれば、ぼくの世界はきみの世界という非チューリング型量子抽象機械によって、きみの世界はぼくの世界という非チューリング型量子抽象機械によって、たがいに計算されているシミュレーションにすぎない。あらゆる並行世界は、隣接する世界でシミュレーションとして計算され続けないかぎり現実になりえない。裏返せば、隣接する世界で計算資源が尽きてしまえば、その世界は消える》(p.220)

《検索性同一性障害は、人間の量子意識計算の根幹を支えるボーア=ペンローズ器官、海馬歯状回顆粒細胞の量子発散で生じる精神疾患だ。発症すると、患者は意識と記憶の量子計算を収束することができなくなる。単語や記憶を脳内で検索すると、脳がその単語や記憶から導出可能なすべての命題空間をひとしく検索してしまうようになる》(p.273)

わりと真剣に共感する一方で、「いいかげんにしなさい!」「もういいよ!」と突っ込んでもらいたいところでもあるのではないか。

それにしても、こうした大げさなもっともらしさは、ふと『ドクラ・マグラ』を思い出させた。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000096/files/2093_28841.html


(3)

「あまりに身近な世界が描かれている。作家もここにいるじゃないか!」

これは読み始めてすぐツイッターにつぶやいたこと。ちょうどトマス・ピンチョン『ヴァインランド』を一緒にちびちび読んでいたころで、『ヴァインランド』が1984年という過去の、アメリカという遠い所の話を、めったに人前に出ないことで有名な外国の作家が書いた小説であることを考えると、『クォンタム・ファミリーズ』は違いがあまりに大きいと感じた。「ここにいるじゃないか」とは、自分たち読者がすいすい出入りするtwitterに、今読んでいる小説の作家がまったく同じように出入りし言葉も残しているということの驚き。それにしても、『ヴァインランド』のほうはまたしても中断したままになった…。

このことは、以下のブログの評がぴたり言い当てていると思う。

http://www.defermat.com/journal/2009/000676.php

舞城王太郎との対比はなるほど!というかんじ。舞城は正体を明かしていないこともあり、読者は小説に書かれた文章以外は作家の考えに何ひとつ触れることはできない。それに対し東浩紀は著書やネットでの言説が溢れてかえっているといっていい。その言説とこの小説は中身も非常に近いと感じられる。

そうしたことがいくらか関連するのだろうが、この小説は曖昧なところがぜんぜんないという点においても際だっていると思う。ややこしい出来事が連続するわけだが、説明が過剰とは感じても不足と感じることはまったくないのだ。このこともどこかのブログの評がうまく言及していた。「シニフィエなきシニフィアン」などというものが完全排除されているとも言える?(どうでもいいけれど)


(4)

現在と現在以降の世界像の何が過去のそれとは決定的に隔たっているのか、それを正確に射抜いた小説は、過去には書かれようがない。現在でも難しい。今のところこの一作だけがそれを遂げている。他には世界でも少ないか全くないか、ではないか。

――こちらは、読み終えてすぐのつぶやき。以下も同様。

現在よりも劣化した未来がSFに描かれることは多いと思う。でもそれは「面白いお話だなあ」ですむ。ところが『クォンタム・ファミリーズ』が描き出す未来の劣化は、たとえばツイッターなどやっていると、それはもう本当に始まっている事実だと気づかざるをえない。(『クォンタム・ファミリーズ』の近未来ではインターネットの情報がもはや信頼できないものになっている)


(5)

並行世界に分岐した主人公の分身は、テロを思索し実行する。それをめぐって仲間が語った思想が以下(小説の核心というわけではなさそうだが)

「そうだ。だからいま暴力に意味があるとすれば、それは現実を変えるからじゃない。暴力の意味は、言葉にはまだ力があると人々に錯覚させる、その一瞬のスペクタクルのなかにしか存在しない。言葉には力がない。意味すらない。しかし、特定の言葉で暴力が生み出され、ひとがばたばたと死ぬとすれば、そのあいだは関心をもたざるをえないだろう? 二一世紀の言葉は、もはやそのようにして生き残るしかない。思想や文学はテロに寄生して生き残るしかない。ぼくたちの時代においては、テロこそが最良の、そして唯一の啓蒙手段なんだよ。(略)」

ここには明晰なテロ思想がひとつ浮上しているのではないか。一昨年、平野啓一郎の『決壊』を読みながら、ドストエフスキーの時代とはまた違う現代特有のテロ理論が展開されるかと期待していたのだが、それはたとえばこのような理論だったのかも。

(『決壊』の感想:http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20080913/p1



(6)

主人公のラストの決意。こちらの方がよほど重要。

《よけいなことは考えるな。運命のことは考えるな。だれを愛するべきなのか、だれに愛されるべきなのか、なにも考えるな。そんなことを考えていたから世界は滅びたのだ。だれも幸せにならなかったのだ。運命の牢獄が汐子のせいなのであれば、汐子を消してしまえばいい。友梨花のせいならば友梨花を消し、ぼくのせいならばぼくを消してしまえばいい。きみたちふたりにはそうする権利があるのだ。もとの世界と歴史に戻れなくなるのなら、ここで生きればいい。並行世界の干渉で記憶を失うのであれば、失ってしまえばいい。他人の身体を使わないと生き残れないのであれば、使い続ければいい。どうせあらゆる生は別の生の可能性を犠牲にしているのだ。これからはぼくときみたちと友梨花の四人で、この世界で生きていこう。》

以下のサイトに、「平行世界の理屈うんぬんとかは抜きにして「てめぇの人生、てめえで責任持てよ」ってことなのかな」(02/09:potechip)とあるが、まったくそのとおりか。
http://book.akahoshitakuya.com/b/410426203X(リンク忘れていたので追加)

これは、細田守監督のアニメ映画『時をかける少女』について東浩紀が書いていたことにも通じると思う。

http://www.hirokiazuma.com/archives/000239.html


(7)

さて、この小説を読みながら一番深く感じ入ったのは、やはり、人の記憶や存在がインターネットやコンピュータも介在しつつ、どんどん混濁していくという点だ。

似たような感触を覚えることが最近実際にあったことも大きい。以下は、そのころ友人にあてたメールから。

「後ろ暗い趣味だと思いつつ、昔の日記を読み返して書き写すプロジェクトを少しずつ続けている。まあほんとに面白いとしか言いようがない。

 それにしても、我々が、その時その時の人生や社会をとらえ思い描くのは、実をいうと言葉(とりわけ日記なら書き言葉)というものを介してであるのだから、昔の自分の言葉を読み返すのは、これは大げさではなく、昔の自分を生き直すのに等しいと感じる。さらに、その昔の自分を言葉を介して思い出し、さらにその日記への感想や批判を言葉を介して行うというのは、もう、タイムマシンやパラレルワールドそのものかもしれない。

 後ろ暗い趣味だけど、一度やってみることをお薦めする」

年を取るにつれ、自分がやったこと以上に、やろうとしてやれなかったことや、やっていてもおかしくなかったこと、さらには、それらについて何度か思い返したりしたこと、などなどのほうがむしろどんどん膨らんで、今の自分の多くを占めるようになってしまうのだ。


 *


クォンタム・ファミリーズ東浩紀asin:410426203X

それにしても、感想はもっとちょっと早く書くようにしたい。