★これはペンです/円城塔
私たちは歩いたり食べたりするのと同じくらい自然にしゃべるので、言葉が道具だなんてまさか思わない。しかし、たとえば次のような目にあったらどうだろう。
・文を作るのにいちいち活字を拾わねばならない。しかも活字は不足しているうえ磁石でくっつきあっていて離れにくい。
・qあwせdrftgyふじこlp;で「ふじこ」が出てきた。
・わけのわからない詩を聞かされて感想を尋ねられた。
・モスクワで「СТОП」の標識を「STOP」に置き換えて車を運転した。
・Googleで自分の名前を検索したら、身に覚えのない犯罪行為を連想させる単語が出てきた。
・それどころか、「身に覚えのない犯罪行為を連想させる単語」を検索したら自分の名前が出てきた!
・「この文は偽です」という文の真偽を問われた。
・ある論文を査読しようと思うが、タイトルが「境界線を侵犯すること:量子引力の変形解釈学へ向けて」だった。――などなど。
こうなると言葉はとても面倒な道具だ。UFOキャッチャーみたいに操作がもどかしい。他人が書いているみたいだったり、言葉が自分で勝手に書いているみたいだったり。
そうこうしているうちに、「これはペンです」などという文すら ぎこちなくなる。いや、そもそも ぎこちない文だった気もするが、もうわからない。
そんなふうに言葉の不可解さに気づいて茫然とする。ところが、不可解だからといってポイとは捨てられない。この道具を抜きにしては何ひとつ認識できない。存在できない。自分も相手も世界も何もかも。そもそも自分の意識からこの道具が欠けた状態を思い描くことができない。
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DNAの遺伝情報は文字のような記号として伝えられていく、と私たちは理解している。しかしそれは私たちが世界を知ったり記したりするのに言葉を最もよく使うからにすぎない、ということはないのか? 私たちがメロディーや絵画をもっぱら使う生物であったら、DNAの遺伝情報もメロディーや絵画の記号として見出されたのだろうか?
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親しい相手だからといって言葉のコミュニケーションがうまくいくとはかぎらない。むしろ親しければ親しいほど、そこに込めたものが重ければ重いほど、コミュニケーションは単純さとは反対の方向に進んでいくようでもある。
かけがえのない人と永久の別れをしなければならない。だんだん薄れていく意識や弱っていく思考。さて、いかにしてコミュニケーションしたらいいのだろう。私たちは互いに何を言い残したらいいのだろう。
いずれにしても、そこには絶望があるのではなく希望こそがあるのだと、考えを進めることはできないだろうか。たとえばそれが、宗教を信じない人と科学を信じない人との間柄であっても。
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以上、「これはペンです」と「良い夜を持っている」の感想とはいえない。読んでから日がたっており、「たしか読みながらそういうことを考えた」というのを思い出しながら書いた。
円城塔の小説では、ある章と次の章のつながりが「あるような、ないような」ことがある。小説と感想が明白につながっていなくても、べつにいいのではないか。なにしろ言葉を使って懸命に書いた。